ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

モーセの書を信じないユダヤ人

 

 「わたし(神のひとり子ナザレのイエス)はわたしの父(イスラエルの神)の名によって来ましたが、あなたがた(ユダヤ人)はわたし(ナザレのイエス)を受け入れません。(イスラエルの神に遣わされた者だと言うナザレのイエスを、ユダヤ人は神の名を汚し冒瀆する者だと訴え、罪に定めました。)

 ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがた(ユダヤ人)はその人を受け入れるのです。

 互いの栄誉(人の賞賛や評判)を受けても、唯一の神からの栄誉(神から出た者を信じ、全能の神から義とされること)を求めないあなたがた(人の評価を重んじるユダヤ人たち)は、どうして(正規の学びもなく、人からの誉れのないナザレのイエスを)信じることができますか。

 わたし(神の御子イエス)が、父の前にあなたがた(ユダヤ人)を訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがた(ユダヤ人たち)が望みを置いているモーセです。

 (モーセの律法を守れば神に義とされると固く信じているユダヤ人たちは、自分たちを義としながら、モーセの命じた聞き従うべき預言者〈神の御子キリスト〉が人の子の姿で現われているのに、信じようとしません。モーセは、神の御国に導き上ってくださる神の御子イエス・キリストを信じないユダヤ人たちの背きの罪を、神に訴えることでしょう。)

 もしあなたがた(モーセの弟子だと自負しているユダヤ人)がモーセを信じているのなら、わたし(先祖アブラハムやモーセの神が遣わされた神の子羊イエス)を信じたはずです。モーセが書いたのはわたし(ナザレのイエス)のことだからです。(モーセがイスラエルに命じた、聞き従わなければならない預言者とは、ナザレのイエスの姿の神の御子主キリストのことでした。)

 しかし、あなたがた(ユダヤ人)がモーセの書(モーセのようなひとりの預言者に聞き従わなければならないとのモーセの命令)を信じないのであれば、どうしてわたしのことば(神に遣わされたイエスのことば)を信じるでしょう。」(ヨハネ43-47)

 

 律法の下にいるユダヤ人たちは、自分は聖なる神の民であると自負していました。そして、律法の下にいない(律法を守らない)取税人や遊女たちを、聖なる神の民の中にあってはならない罪人として忌み嫌っていました。

 

 ところが、律法の下にいるユダヤ人たちは、ナザレのイエスを蔑み、信じません。信じないどころか、神の御子イエスを神を冒瀆する者であるとして罪に定めたのです。それに引きかえ、律法の下にいない、すなわちモーセの律法に従わないユダヤ人たちは、神の御子イエスを主キリストと信じたのでした。

 

 イエスのたとえ話を思い出します。イエスは祭司長、民の長老たちに言われました。

 「ところで、あなたがた(祭司長、民の長老たち)は、どう思いますか。

 ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。兄は答えて『行きます。お父さん。』と言ったが、行かなかった。

 それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。

 ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりをしたのでしょう。彼ら(祭司長たち)は言った。『あとの者です。』

 イエスは彼ら(祭司長、民の長老たち)に言われた。

 『まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがた(祭司長、長老たち)より先に神の国に入っているのです。

 というのは、あなたがた(祭司長、長老たち)は、(バプテスマの)ヨハネが義の道を持って来た(キリストの訪れを告げた)のに、彼を信じなかった。(祭司長、民の長老、パリサイ人たちは、ヨハネを信じず、悔い改めて水のバプテスマを受けなかった。)しかし、取税人や遊女たちは彼を信じた(ヨハネから水のバプテスマを受けて、悔い改め、キリストにお会いする備えをした。すなわち、イスラエルの神が用意されたヨハネと、モーセも言っていたキリストを信仰をもって受け、ナザレのイエスを信じた)からです。

 しかもあなたがた(律法の専門家、民の指導者や教師たち)は、それを見ていながら(ユダヤ人たちがイエスを信じ、また、取税人や遊女たちもイエスに従ったのを見ていながら)、あとになって(十字架で処刑したことを)悔いることもせず、彼(神の子羊イエス・キリスト)を信じなかったのです。」(マタイ21:28-32)

 

 ユダヤ人たちは、モーセのことばを心のうちにとどめていません。なぜならば、父(モーセに律法を授けられたイスラエルの神)が遣わした者(神の御子イエス・キリスト)をユダヤ人が信じないからです。一方、モーセの律法を守らない取税人や遊女たちは、イエス・キリストを信じて、モーセの命令を守ったのでした。

 

 「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたし(神が遣わすと約束されたメシア、すなわち神の御子イエス・キリスト)について証言しているのです。

 それなのに、あなたがたは、(永遠の)いのちを得るためにわたし(十字架につけられた神の子羊イエス・キリスト)のもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:39,40)

 

 ナザレのイエスは、神からキリストの油を注がれたメシアです。神は、十字架につけられたナザレのイエスに、権威を与えておられます。

 「父(神の子羊イエスの父、すなわち全能の神)はだれをもさばかず、すべてのさばきを子(神のひとり子イエス・キリスト)にゆだねられました。(神の御子イエス・キリストが神の家をさばかれるのです。)

 それは、すべての者が、父(天の神)を敬うように子(御子イエス・キリスト)を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。(イエス・キリストを信じない者は、救い主イエス・キリストを遣わされた天の神をも信じない者です。)」(ヨハネ5:22,23)

 

 イエスは言われます。

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたし(神の御子イエス)のことばを聞いて、わたし(イエス・キリスト)を遣わした方(天の神)を信じる者は、永遠のいのちを持ち、(最後の)さばきに会うことがなく、(永遠の)死から(永遠の)いのちに移っているのです。

 まことに、まことに、あなたがたに告げます。(霊的な)死人(死と裁きが定められている罪人)が神の子の声(イエス・キリストのことば)を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者(キリストの福音を聞いて信じる者)は(永遠のいのちを得て永遠に)生きるのです。

 それは、父が御自分のうちに(みずから永遠の)いのちを持っておられるように、子(人の子として来られた御子イエス)にも、自分のうちに(みずから永遠の)いのちを持つようにしてくださったからです。

 また、父は裁きを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。(肉体をもち、人の子の姿で来られたゆえに、霊なる神は、イエスに人を裁く権威をお与えになりました。」(ヨハネ5:24-27)

 

 神が遣わされたモーセのような預言者、すなわちユダヤ人から出た聞き従うべきメシア(イエス・キリスト)を信じる者も、信じない者も、同じ時代を過ごし、終わりの時を迎えようとしています。

 イエスを信じる者にとっては、聞いていたことですが、イエスを信じない者にとっては怪しむことかも知れません。世の人々にとって、驚くべきことが起こります。

 

 「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者(死者)がみな、子(神の御子イエス・キリスト)の声を聞いて(墓の中から)出て来る時が来ます。

 善を行なった者(神を信じた者)は、甦って(永遠の)いのちを受け、悪を行なった者(神を恐れなかった者)は、甦ってさばきを受けるのです。」(ヨハネ5:28,29)

 

 その時、預言者ダニエルのことばが成就します。

 「その時、あなたの国(イスラエル)の人々を守る大いなる君、(御使い)ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民(ユダヤ人)で、あの書(いのちの書)に(名の)記されている者はすべて救われる。

 地の塵の中に眠っている者(死者)のうち、多くの者が目をさます(甦る)。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌み(裁きと永遠の死のため)に。

 思慮深い人々(神の御心にへりくだり忠実な人々)は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者(キリストの御救いの福音を伝えた者)は、世々限りなく、星のようになる(輝く)。」(ダニエル12:1-3)

 

 イスラエルへのしるしとして、イエスは語られました。

 「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを知りなさい。」(ルカ21:20)

 これは、イスラエルの神の復讐の日であり、神のイスラエルを贖う年が来たのです。イスラエルの神は、敵によって包囲し、イスラエルの背信に報復されます。イスラエルに苦難が臨み、天の万象は揺り動かされます。

 世界中の人々は、恐ろしさのあまり気を失います。

 イスラエルの贖いが近づいたのです。こうして、イスラエルは(ユダヤ人のすべてが)悔い改め神に立ち返って救われます。

 

 モーセの書を守らなくても、神の御子イエスを信じる者は、モーセの律法を守る者であり、天の法の中に入る者(永遠のいのちを得る者)とされます。

 モーセの書を信じていても、神の御子イエスを信じない者は、心にモーセの書をとどめていない者であり、モーセの律法を守っていないのです。

 

 モーセの書を信じていても、信じていなくても、神が遣わされた神のひとり子イエス・キリストを信じる人は、神の子羊イエスにあってモーセの律法を完全に守る者であり、神の御救いを受けるのです。