パウロはテモテに言いました。
「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。
そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人を避けなさい。
こういう人々の中には、家々にはいり込み、愚かな女たちをたぶらかしている者がいます。その女たちは、さまざまの情欲に引き回されて罪に罪を重ね、いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たちです。
また、こういう人々は、ちょうどヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。
でも、彼らはもうこれ以上に進むことはできません。彼らの愚かさは、あのふたり(ヤンネとヤンブレ)のばあいのように、すべての人にはっきりわかるからです。
しかし、あなた(テモテ)は、私(パウロ)の教え、行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、またアンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついて来てくれました。何というひどい迫害に私は耐えて来たことでしょう。しかし、主はいっさいのことから私を救い出してくださいました。
確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。
しかし、悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。
けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。」(テモテ第二3:1-14)
終わりの時代には、神の民の中でも、真理に逆らう者たちが浮上して来ます。
神の民の中で、ほかの神の民(主にある兄弟姉妹)とともに学んでいるはずなのに、いつになっても真理を知ることのできない人々です。
見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者なのです。すなわち、敬虔のために自分を鍛錬することを憎み、自分の家族を顧みず、親の恩に報いることを嫌う人々です。こういう人々は、信仰を捨てているのであって、不信者(神を知らない者)よりも悪いのです。なぜならば、キリストの道を知っていて、その御救いの道を汚す者だからです。
彼らは知性の腐った(敬虔を利得の手段と考えている)、信仰の失格者です。
パウロは、こういう人々を避けるように、と言います。
「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益(永遠のいのちと天の御国)を受ける道です。
私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。(「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこ【誕生する以前にいたところ】に帰ろう。」〈ヨブ1:21〉)
衣食があれば、それで満足すべきです。
金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。
金銭を愛することが、あらゆる悪の根(妬み、裏切り、偽りと嘘、憎しみ、争い、騙し合い、怒り、盗み、人殺しなどの罪の根)だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。
しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。
信仰の戦いを勇敢に戦い(この世の滅びの生き方を退け、神の国のいのちの生き方を選び取って)、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白(信仰告白)をしました。」(テモテ第一6:6-12)
パウロは、信仰に勝利することを求める人々に勧めます。
「私たちの主イエス・キリストの現われの時まで、あなたは命令(聖書のみことば)を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。
その現われ(神が定められた栄光)を、神は御自分の良しとする時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ(神の御座の右に着かれ)、人間(世の人々)がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしれの主権は神のものです。アーメン。」(テモテ第一6:14-16)
パウロは、この世で富んでいる人たちに言います。
「高ぶらないように。たよりにならない冨に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与え楽しませてくださる神に望みを置くように。
また、(他の)人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。
また、まことのいのち(永遠のいのち)を得るために、未来(信仰の試み)に備えて良い(信仰の)基礎を自分自身のために築き上げるように。」(テモテ第一6:17-19)
神は、神に忠実な者を殉教者として選ばれます。自分からいのちを献げても、神に受け入れられるきよい者でなければ、殉教者に数えられません。
神の子羊イエス・キリストは、罪のないきよい子羊であったので、神に贖いの血としてイエスの血が受け入れられました。
きよい生活をする忠実な信仰者の死は、神の御心を満足させる聖なる献げ物なのです。
神は、異邦人の時の完成のときに、殉教によって神の栄光を現わす、忠実な人々をキリスト教会の中から立てられるのです。
神は、神に忠実な人々の心を火の試練をもって試し、純真なきよい者として整えて行かれるのでしょう。