ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

義の栄冠を得る

 

 「(永遠に生きておられる)神の御前で、また、生きている人(永遠のいのちを得る信仰の勝利者)と死んだ人(肉のまま生きていのちを得ることなく、永遠の死にはいる信仰の失格者)とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われ(キリストの再臨)とその御国(信仰の勝利者たちが集められるキリストの王国)を思って、私(パウロ)はおごそかに命じます。

 みことばを宣べ伝えなさい。(福音を絵画で表現する人もいれば、歌で表現する人もいれば、メッセージを語る人もいれば、隣人に愛を示すなど生きた証の存在としての生き様を示す人もいれば、神に忠実に生きるしもべもいれば、祈りをもって仕える人もいます。それぞれ賜物に応じて福音の働きをします。)

 時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。(道の危うい人には道を正し、愛を持って叱責し、永遠のいのちを得る道を歩むように勧めなさい。)

 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に(真理から外れた自分の心を安心させてくれる混ぜ物入りの教えをする)教師たちを自分たちの(生き方を彼らの教える真理によって保証し、自分たちの義を証明してもらう)ために寄せ集め、真理(神の純粋なみことば)から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。(神よりも自分を愛する人が多くなるのです。)

 しかし、(神に覚えられている)あなたは、どのような場合にも慎み、(キリストにある真理ゆえの)困難に耐え、伝道者(キリストの福音〈まことの神の御救い〉を広める者)として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。(生ける神に仕え続けなさい。)

 私(パウロ)は今や注ぎの供え物となります。(灌祭〈かんさい〉パウロ自身の血が神への感謝の葡萄酒の献げ物となります。)私が世を去る時はすでに来ました。(神への信仰を守り通して殉教する日が来ました。)私は(権力にも、人の欲求にも屈せず)勇敢に戦い、走るべき道のりを終え、信仰を守り通しました。

 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日(白い御座の裁きの座の御前に立つ日)には、正しい審判者である主(裁き主)が、それ(義の冠)を私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(テモテ第二4:1-8)

 

 人はだれでも、神が遣わされた救世主(神の御子イエス・キリスト)を信じて義とされ、子羊の血によって罪が赦されます。

 そして、死から甦り復活したキリスト・イエスの生かす御霊を受けて、御霊によって新しく生まれ、神を愛する新しい人に造り変えられて、「義の冠」を受けます。

 

 千年王国で七つの御霊の教会が完成し、天の御国にはいる神の子どもたちが完成されると、すべての人は、白い御座の御前に立ちます。

 裁き主の裁きを受けるのです。

 地球に生まれたすべての魂が、死者の中から甦り、生きている者も死んだ者もひとりひとり御前に立ちます。

 

 ひとりひとり、その人の行ないに応じて裁かれます。

 いのちの書に名前のない人々は、「善悪の木の実」を食べる人々です。自分の罪を悔い改めず、悪魔のために用意された永遠の火の池に投げ込まれます。

 彼らは、神よりも自分を愛して、自分の罪を悔い改めることなく、いのちの木の実を食べることが許されなかった人々です。

 女から生まれた生まれつきのままの人間として死んだ人々です。

 

 いのちの書に名のしるされた人々は、信仰によって、「いのちの木の実(御霊の永遠のいのち)」を食べた人々です。すなわち、キリストの父が与えキリストが授けられた生かす御霊(生ける水)を飲んだ人々です。

 神の遣わされた救世主(神のひとり子キリスト・イエス)を信じ、神の子羊イエスの罪の贖いの血によって、善悪の木の実を食べた呪いから解放され、御霊による新しい創造を受けた人々です。

 彼らは、女から生まれた肉のいのちに死んで、御霊によって新しく生まれた新しい人(神の子ども)です。

 

 善悪を知る知識の木の実を食べる肉のままの人々は、最後の裁きを受けるために、神の御前に立ちます。

 しかし、肉に死に御霊によって生きる人々、また、いのちの木の実を食べることが許されいのちの木の実を食べた人々は、義の冠を受けて、神の用意されたとこしえの国、すなわち、新しい天と新しい地にはいる神の子どもとされるために、神の御前に立ちます。

 

 決勝点(大きな白い御座の御前で義の栄冠を受けること)を知るパウロは言います。

 「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。

 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。

 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。(賞を得るためにあらゆることを忍耐し努力します。)彼ら(この世の闘技をする者たち)は朽ちる冠(死ぬときに持って行くことのできない栄誉)を受けるためにそうするのですが、(神の御救いを知る)私たちは朽ちない冠(とこしえに神の子どもとされる義の栄冠)を受けるためにそうするのです。(永遠のいのちを得させるキリストの福音のために生きて信仰の勝利者となるために、うしろのものを忘れひたむきに前に向かって進み、自制します。)

 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしていません。

 私(パウロ)は自分のからだを打ちたたいて(自分自身を神の御霊に)従わせます。それは、私がほかの人に(キリストの福音)を宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者となるようなことのないためです。(肉に反して神のことばに従い、永遠のいのちを受ける新しい人としての歩みを全うするのです。)」(コリント第一9:23-27)