「私たちの住まいである地上の幕屋が壊れても(霊魂の住まいである肉体が死んでも)、神の下さる建物(永遠に生きる復活のからだ)があることを、(神の御子イエス・キリストを信じる)私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。(人の知識や知恵によって造り出されるものではなく、永遠の昔から存在している霊魂の故郷です。)
私たちはこの幕屋にあってうめき(罪ある肉の性質と、病の痛み苦しみや死の悲しみや恐怖、そして老いて朽ちる不自由な肉体の中に縛られ)、この天から与えられる住まい(キリストの血によってきよめられた霊魂のためのからだ、すなわちキリストの御霊によって新しく生まれた神の子どもに与えられる復活のからだ〈永遠のいのちで生きる新しい霊のからだ〉)を着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
確かにこの幕屋(肉体)の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたい(死にたい)と思うからではなく、かえって天からの住まい(肉体の死の後に与えられる永遠のからだ)を着たいからです。そのことによって、死ぬべきもの(死と死後の裁きが定められていた霊魂)がいのちにのまれてしまう(永遠のいのちに移される)ためにです。
私たちをこのことにかなう者(永遠のいのちを得る者)としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊(真理の御霊)を下さいました。
そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。(肉体にいる間は、神に従いたいという願いを持っていても、肉の欲望が戦いを挑んで来ます。また、神を信じているのに、神の御姿を見ることはなく、御声を聞くことも稀だからです。)
確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。
(御霊がともにおられる)私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて(霊魂となって)、主のみもとにいるほうがよいと思っています。(肉体の死を恐れません。肉体を離れなければ、主のみもとに行くことができないことを知っているからです。主の愛と光の恵みを知る私たちは、肉体をもってこの世に留まるよりも、肉体を脱いで神のみもとに帰ることのほうが幸いだと思っています。))
そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。
なぜなら、私たちはみな、キリストの裁きの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(私たちは、神に悲しまれる者ではなく、神に喜ばれる者となりたいのです。)」(コリント第ニ5:1-10)
「神は、私たちを暗闇の圧制(罪に導く悪魔の支配)から救い出して、愛する御子(イエス・キリスト)のご支配の中に移してくださいました。
この御子(神のひとり子イエス・キリスト)のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦し(永遠の死からの救い)を得ています。」(コロサイ1:13,14)
御霊を受け、御霊による愛を持つ人々のために、パウロは祈っています。
「どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神の御心に関する真の知識に満たされますように。
また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。
また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった(神の子どもとしてくださった)父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。」(コロサイ1:9-12)
「(主イエス・キリストにある)兄弟たち。私(パウロ)は、神の憐れみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。(生き方そのものを神にささげなさい。いつも神を意識して歩みなさい。)それこそ、あなたがたの霊的な礼拝(霊とまことの礼拝)です。
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのか(御霊に従うことであるのか)をわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(肉によって歩まず、御霊によって歩みなさい。)
私(パウロ)は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」(ローマ12:1-3)
イエスは、しもべがどのようなものであるのかを、弟子たちに教えられました。
「あなたがた(弟子たち)のだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』と(主人は)しもべに言うでしょうか。
かえって(主人は)、『私の食事の用意をし、帯を締めて私(主人)の食事が済むまで給仕しなさい。(その)あとで、自分(しもべ自身)の食事をしなさい。』と言わないでしょうか。
しもべが言いつけられたことをしたからといって、(主人が)そのしもべに感謝するでしょうか。
あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。成すべきことをしただけです。』と言いなさい。」(ルカ7-10)
イエスご自身、しもべとして歩まれました。
「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られたペテロはイエスに言った。『主よ。あなた(私たちの師、先生)が、私たち(弟子たち)の足を洗ってくださるのですか。』
イエスは答えて言われた。『わたし(イエス・キリスト)がしていることは、今はあなた(ペテロ)にはわからないが、あとでわかるようになります。』
ペテロはイエスに言った。『(先生が私になさることは、私が先生にしなければならないことではありませんか。畏れ多いことです。)決して私の足をお洗いにならないでください。』
イエスは答えられた。『もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。』(遠慮して、私たちに仕えてくださるイエス・キリストの奉仕を受けない者は、イエスと関わりのない者です。)
シモン・ペテロは言った。『(それならば)主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。』
イエスは彼(ペテロ)に言われた。『水浴した者(罪を悔い改めて水のバプテスマを受けた者)は、足(日々犯してしまう罪、良くない言動の悔い改め)以外は洗う必要がありません。(すでに)全身きよいのです。(神に罪を告白して悔い改めた)あなたがたはきよいのです。』(ヨハネ13:4-10)
「イエスは、彼ら(弟子たち)の足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。『わたし(イエス・キリスト)があなたがた(十二使徒)に何をしたか、わかりますか。
あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたし(イエス・キリスト)はそのような者(わたしは、神に油注がれたキリスト)だからです。
それで、主であり師であるこのわたし(イエス・キリスト)が、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。(罪から互いに守り合い、また、赦し合うべきです。)
わたし(師)があなたがた(弟子たち)にしたとおりに、あなたがたも(あなたがたの弟子たちに)するように、わたし(師であるキリスト)はあなたがたに模範を示したのです。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。(キリストよりもキリストを遣わされた父なる神のほうがまさっており、キリストの弟子たちよりもあなたがたの師であるキリストのほうがまさっているのです。)
あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それ(互いに足を洗い合う)を行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。」(ヨハネ13:12-17)
しもべとなられたイエスは言われます。
「あなたがた(イエスの弟子たち)の間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
人の子(人となられた神の御子イエス・キリスト)が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:43-45)
使徒ヤコブは言います。
「私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者(信仰から外れた者)がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人の魂を死から救い出し、また、多くの罪をおおう(愛のわざをしている)のだということを、あなたがたは知っていなさい。」(ヤコブ5:19,20)
「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。
それぞれが(御霊の)賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(ペテロ第一4:7-10)