ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

いのちを生み出すいのち

 

 イエスは言われました。

 「人の子(イエスはご自分のことを「人の子」と呼ばれた)が(キリスト〈救世主として〉の)栄光を受けるその時が来ました。

 まことに、まことに、あなたがたに告げます。

 一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。(土に入った種が死ぬと、それはもはや一粒の種ではなく、やがて根を張り芽を生やし豊かな実を結ぶいのちの源となります。)

 自分のいのちを愛する者はそれ(永遠のいのち)を失い、この世でそのいのち(自分のいのち)を憎む者はそれ(信仰)を保って永遠のいのちに至るのです。

 わたし(神の子羊イエス・キリスト)に仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。(わたしイエスが歩んだ道を歩みなさい。)

 わたしのいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。(イエスのおられる所は十字架の道です。)もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(ヨハネ12:23-26)

 

 人の子(イエス・キリスト)の栄光とは、自分自身のいのちよりも神の御計画に仕えること(すなわち、おのれに死んで、多くの実を結ぶ〈多くの人を生かす〉祝福の基となること)を愛して、肉の欲求と死に勝利し、死から甦って、永遠のいのちを与える「生かす御霊」となられることです。

 

 一粒の麦を土に蒔くならば、その麦の姿はなくなりますが、その麦のいのちから、多くの麦(新しいいのち)が生まれます。

 土に蒔かれた種は、自分自身のいのちを失います。しかし、死んだはずの一粒の麦から、新しいいのちが生まれます。それは、一粒の麦ではありません。多くの麦の実をつける麦の穂となります。土に入っておのれに死んだ一粒の麦は、いのちを生むのです。

 

 人間が土の中を捜しても、一粒の麦を見つけることはできません。一粒の麦は、死んで、一粒の麦の中にあったいのちが新しい生命となったからです。

 神の目から見て、その一粒の麦は消滅したのでしょうか。いいえ、新しいいのちを生み出すために死んだ一粒の麦は、神の報いを受けます。永遠のいのちです。

 

 土の中に入った一粒の麦は、自分のいのちに固執しませんでした。自分のいのちを惜しまなかったのです。

 それゆえ、神は、彼が惜しまなかった彼自身のいのちにかえて、彼に永遠のいのちを与えられます。

 

 土に落ちても生きたままならば、相変わらず、一粒の麦のままです。しかし、死ねば、豊かな実を結ぶのです。

 自分のいのちを愛する者は、イエスのためにいのちを捨てることができません。死ぬことができないのです。イエスにならって十字架につきながら、彼は自分のいのちを愛し、死ぬことができません。彼は、神が用意しておられる永遠のいのちを得ることができません。

 

 永遠のいのちは、自分の十字架を負って、イエスにならって死ぬ者たちのために用意されているものなのです。

 死ぬことを望まない者は、いろいろな理屈をつけて死を避けます。自分のいのちで生き、自分のいのちの延命をはかります。それは、神が彼のいのちにかえて、生かす御霊による永遠のいのちを与えてくださるという信仰を持っていないからです。

 永遠のいのちがあることを聞いて知ってはいるけれども、本当のところ、よくわからないのです。目に見えない約束よりも、目に見える現実(肉体のいのち)に信頼を寄せているのです。神のことばよりも、目に映ることに信頼を持っています。

 

 自分のいのちを愛する者(自分のいのちに固執する者)は信仰が不安定で信仰を保てずに永遠のいのちを失い、この世で自分のいのちを憎む者(自分のいのちを神のために手放す者)は信仰を保って永遠のいのちに至るのです。

 

 永遠のいのちに至る人々は、肉(おのれ)に死に、生かす御霊によって、新しいいのちが生まれる人々です。

 自分のいのちを愛する者は肉のまま生きる者であり、この世の人々と同じ道にいることに気づきません。

 イエス・キリストのゆえに自分のいのちを憎む者は神に聞き従われた神の子羊イエス・キリストの歩まれた「いのちの道」を歩む者です。そして、いのちの道は永遠のいのちに至るのです。

 

 死からいのちを生み出すこと。それが、人の子の栄光です。肉に死んだ子羊イエスは、死から甦り、生かす御霊となられました。

 

 (神には、人を死者の中から甦らせることもできる。)と考えたアブラハムは、神への信仰をもって、神のことばに従い、ひとり子イサクを燔祭にささげました。

 アブラハムはその信仰によって、死者の中からイサクを取り戻したのです。

 

 神は、アブラハムを「信仰の父」と呼ばれます。信仰がなければ、人は神に喜ばれません。神は、信仰によってアブラハムを義とされました。

 天の御国に招かれる永遠のいのちを得る神の子どもたちは、信仰によって、生かす御霊の新しいいのちを得る信仰の勝利者なのです。

 

 それは、死に勝利する信仰です。

 十字架で死んだイエスは、肉のからだに死んで、御霊が与えられる復活のからだで死から甦られました。そして、勝利者イエス・キリストは、生かす御霊となって、信仰のある人々のうちに住まわれます。

 

 自分のいのちを憎んで、イエスのように、自分のいのちを神に献げる人々のうちには、生かす御霊が住まわれます。

 土に蒔かれ自分に死んだ一粒の麦のうちにおられる生かす御霊は、その人の信仰を祝福し、多くの人々の祝福の基とされます。御霊の創造によって、神に忠実な人々の新しいいのちから、生ける水の川が流れるようになるからです。

 生ける水の川は、その人を生かすだけでなく、その人のうちからほかの人々をも生かす生ける水(御霊)が溢れ流れるようになるからです。

 

 もはや、自分ひとり、自分自身の祝福だけではありません。神は、おのれに死んだ人々に、ほかの人々にも永遠のいのちを得させるための愛と、祝福の基とされる信仰を置かれるのです。

 

 神は、これらの忠実な人々を集められます。異邦人の時に、彼らを信仰の勝利者として完成されるのです。

 

 自分を生かすことを望む信仰者たち(十字架で死にきれない人々)は、ユダヤ人の時に、自分のいのちと引き換えに、永遠のいのちを得るでしょう。神への信仰を手放さなければ、永遠のいのちを得ることができます。しかし、それは、自分自身のいのちを救うだけです。

 

 神は、いのちを生み出す御霊によって歩む新しい人に造り変えられる、新しい創造の人々を、子羊の婚宴に招かれます。

 いのちを生み出す、生かす御霊のいのちによって生きる新しい人々が完成させられると、異邦人の時は完成します。彼らは、新しい天に属する人々です。