イエスとともに歩む一行は異端視されながらも、ユダヤ教の一派でした。ナザレ人のイエスから出た教えゆえに、ナザレ派と呼ばれていました。
聖書の神の教えを信仰とする仲間でした。
その当時は、ユダヤ教という宗教ではなかったようです。民俗信仰としてユダヤ民族に伝承され守られて来た信仰でした。(神道が日本民族の信仰であって、仏教やキリスト教のような宗教ではなく、神の道と考えるのと同様です。)
イエスの弟子たちの神の教会の教えを旧新両約聖書の「キリスト教」と認識するようになると、キリスト教と区別するために、旧約聖書の教えを「ユダヤ教」と呼ぶようになったと聞きました。
ユダヤ教の一派「ナザレ派」が、みずからユダヤ教から独立してキリスト教を新らしく立ち上げたのでしょうか。
ユダヤ人たちは、ローマ帝国の圧政から解放されるために、ローマ支配に抵抗して、独立戦争を起こしました。
ユダヤ教ナザレ派のイエスの弟子たちは、エルサレムに集まって聖霊のバプテスマを受けていました。彼らは、聖霊とともに歩むユダヤ人でした。キリストの御霊とともにいたのです。彼らは、ユダヤ教の中で真理の御霊に聞き従う一派だったのです。
使徒行伝を読むと、聖霊のバプテスマを受けた使徒たちが聖霊に聞き従っていたことが書かれています。
死から甦ったイエス・キリストは、弟子たちに、「聖霊を受けなさい。」と言われました。
そして、イエスは天に上られる時に使徒たちに命じられました。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。(バプテスマの)ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは(キリストが授ける)聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒1:4,5)
十字架につけられる前に、イエスは使徒たちに言っておられました。
「もう間もなく、わたし(イエス)は世から去ります。わたしを遣わした父のもとに行くのです。父は、わたし(イエス)の去った後に、あなたがた(神のひとり子ナザレのイエスを信じ従った弟子たち)に、もうひとりの助け主【真理の御霊】を遣わされます。」
「わたし(イエス)は父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがた(イエスを信じたイエスの弟子たち)にお与えになります。その助け主(真理の御霊、すなわち聖霊)がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
その方は、真理の御霊です。世(肉なる人たち)はその方(御霊)を受け入れることができません。世はその方を見もせず知りもしないからです。(神を思わず、この世のことを思う世の人々は、御霊の働きを見もせず、永遠のいのちの御霊を知りもしません。―世の不信仰は聖霊の働きを見ても、違う霊の働きだと思う―)
しかし、(イエスを信じるしもべの)あなたがたはその方(真理の御霊)を知っています。その方(キリストともにおられた聖霊)はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。(イエスのみことばがうちにある人は真理を持っており、真理の御霊が住まわれます。)
わたし(イエス・キリスト)は、あなたがた(イエスを信じる弟子たち)を捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。(キリストの御霊を受けるあなたがたは、とこしえにキリストとともにいることになります。)
いましばらくで世(神が世に遣わされたキリスト【救世主】、すなわち、神の御子イエスのみことばを信じない、不信仰な世の人々)はもうわたし(ナザレのイエス)を見なくなります。(もう間もなくすると、イエスは十字架につけられ、世の罪を取り除く贖いの血を流して、世からいなくなるのです。)
しかし、(イエスを信じて、子羊の血で贖われる)あなたがたは(信仰によって)わたしを見ます。(死から復活されたイエス・キリストは、弟子たちに現われました。しかし、世の人々は見ることができませんでした。)
わたし(神の子羊イエス・キリスト)が(死から甦って永遠に)生きるので、(キリストの御霊〈もうひとりの助け主〉を受ける)あなたがたも(御霊によって永遠に)生きるからです。」(ヨハネ14:16-19)
ユダヤ教のナザレ派のユダヤ人たちは、聖霊に聞き従う群れでした。
ユダヤ人たちがローマに抵抗して独立戦争を起こそうとしている時、聖霊は「逃げなさい。」と言われたのです。
聖霊のバプテスマを受け、御霊に導かれる彼らは、御霊の声に従って、逃げました。だれかが号令をかけたのではありません。ナザレ派のユダヤ人は、おのおの御霊の声を聞いて逃げました。
すべてのナザレ派のユダヤ人が立ち去った後に、エルサレムは陥落しました。
神は、神が遣わした救い主イエス・キリストを信じない不信仰なユダヤ人たちを怒り、彼らからユダヤの地を取り上げて、国々に離散させました。
ユダヤ人たちが戦っても、ローマ帝国に勝つことはできません。ユダヤ人たちがローマと戦い勝利して独立することは、神の御心ではなかったのです。
不信仰なユダヤ人たちを世界に散らして、異国の地で迫害を受けて彼らを苦しめることが、神の御心だったのです。
父なる神は、神の御子イエスを嘲り、辱しめ、ののしり、苦しめたのと同じ苦しみを、ユダヤ人たちに負わせ、彼らの十字架とされました。
イエスを信じなかったユダヤ人たちは、御霊を知りませんでした。それゆえ、逃げることができませんでした。
しかし、ユダヤ人たちは、イスラエルのために自分たちとともに戦わなかったナザレ派の人々を憎み、逃げた彼らを裏切者とし、彼らをユダヤ教から排除しました。
御霊に聞き従うことが、ユダヤ教と別つこととなりました。
神の御子イエス・キリストを信じないユダヤ人たちを見限って、ナザレ派のユダヤ人たちが出て行ったのではありません。
ユダヤ教が、ナザレ派を、自分たちの仲間ではないとみなして、分離したのです。
終わりの時代も、同じようなことが起こることでしょう。
御霊を受けたキリスト者と、受けていないキリスト者は、一致することがありません。分離することになるでしょう。出エジプトの時のユダヤ人たちのように、エジプト人たちから「出て行ってくれ。」と言われて、出て行くのかも知れません。
神道の中でも、仏教の中でも、様々な宗教の中で起こることかも知れません。
世の人は御霊の人とともにいることができないからです。ともにいたくないのです。
「ぺリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。
しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ぺリクスは恐れを感じ、『今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。』と言った。」(使徒24:24,25)
真理のことばに心は引かれますが、悔い改めることや裁きのことばは聞きたくないのです。
キリスト教、神道、仏教など、宗教によって争って世が分裂するのではありません。終わりの世には、宗教の垣根を越えて、世界はひとつになろうとすることでしょう。
真理の御霊を受けた人たちは、人間の教えや人間的な動機で一つとなろうとせず、おのおのが真理の御霊に聞き従うことで、ひとつの御霊によって、一つの心、一つの思い、一つの信仰(御霊の信仰)に導かれることでしょう。
世は、御霊を持つ人々を自分たちとはひとつになれない人々と認識して、嘲り、苦しめ迫害するのかも知れません。
御霊の人は、とこしえの国を仰いで、耐え忍び、信仰の勝利によって、約束のもの(永遠のいのち)を得ることでしょう。