ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

おめでとう 恵まれたキリスト者 主があなたとともにおられます

 

 日本列島が贖われると、真理の御霊が注がれます。身魂をきよめ備えられた日本人は、御霊を受けて真理を悟り、救いの喜びに満たされるでしょう。

 

 その中には、神道の人もいれば、仏教の人もいれば、スピリチャルの人もいれば、無宗教の人もいるでしょう。

 神は、大和の心の回復のなる事を御計画しておられました。神武天皇の時代に大和の民と呼ばれた人々の子孫の霊は目覚め、すべてに働く目に見えない大いなる存在に思いが向けられます。

 

 自然と調和し、大いなる存在の愛と慈しみに包まれ、平安と喜びを持つ魂です。日本列島に隠されていた、神の宝の民の魂は目覚め、神にお会いするために身魂をきよめることを励みます。彼らの魂は啓示の光を受けて、神の時を悟るからです。

 

 神は、契約を結ぶアブラハムの子孫に御救いのわざを託されました。神は、ユダ族のダビデ王の子孫ヨセフに、御自身のひとり子(神の御子)イエスを託されました。

 

 イエスは成長し、ユダヤ人たちに神のことばを宣べ伝えました。

 ユダヤ人たちが「私たちの神」と呼んでいる方は、神の御子イエスの父であり、天地万物を造られた万物のものの父であること、父は神の民を罪の世から救い出し神の民を住まわせるための「天の御国」を用意しておられること、また、とこしえの天の御国にはいらせるために神の民に永遠のいのち(聖霊)を得させられることを知らせました。

 

 ユダヤ人たちは、「神の子」とされるナザレのイエスが神に遣わされた「キリスト」であることを信じることができませんでした。彼らは、不信仰によって、神の御救いを受け取ることができませんでした。

 しかし、ナザレのイエスを十字架につけて処刑することで、世の罪を取り除く神の子羊の血を流すという、神の祭司の国民の働きは成し遂げました。

 

 不信仰なユダヤ人に代わって、十字架で死んだ神の子羊イエスを「救い主神の御子キリスト」であると告白する信仰の相続人の異邦人が、御救いのわざを引き継ぎました。

 

 主は、イエスのことばに忠実なキリスト者とともにおられました。イエスのことばに救いを見て、イエスのことばに従う者は、神の道を歩みました。

 しかし、多くのキリスト者は自分が救われることだけに関心を持ち、御救いの信仰を持ったことにあぐらをかいて、霊とまことの礼拝から離れて行きました。

 

 しかし、終りの時代が近づくと、神の約束された「もうひとりの助け主」【真理の御霊】を求めて、聖霊を受けるキリスト者たちが起こされました。

 

 真理の御霊は、イエスのことばを思い起こさせ、真理を教え、いのちの道へと導く助け主です。

 ナザレのイエスが、天の神によって遣わされたものであったように、真理の御霊もまた、天の神に遣わされて、イエス・キリストのしもべのうちに住まうものなのです。

 

 人は、ナザレのイエス(神の子羊イエス・キリスト)によって信仰が与えられ、真理の御霊(聖霊)によって信仰の道を歩みます。

 天の神がお与えになった信仰は、永遠のいのちであり、いのちの道です。

 

 天の神は、人(神から離れていた罪人)をきよめて永遠に生きる新しい人を創造をするために、神の子羊(神の御子イエス・キリスト)の血で罪を取り除き、罪の贖われた魂にキリストの御霊(聖霊)を住まわせられます。

 

 ユダヤ人たちが、ナザレのイエスを神に遣わされた「約束のキリスト(神に油注がれた者)」である事を信じることができなかったように、終りの時代、キリスト者たちもまた、神のことばを思い起こさせて夢や幻で知らせる真理の御霊が、父の約束の実現によって遣わされた「もうひとりの助け主」であることを悟ることができません。

 

 キリストは水でバプテスマを授ける方ではなく、聖霊のバプテスマを授ける方です。

 しかし、不信仰なキリスト者の思いは暗くなり、キリストから聖霊のバプテスマを受けることを望まないのです。御霊の信仰がないからです。

 

 世の終わりには、身魂をきよめて聖なる救いを待ち望む大和魂に、真理の御霊が下られます。神がそのように御計画されているからです。

 

 しかし、その前に、日本のキリスト教会に注がれ、真理の御霊を受けるキリスト者と、受け取れない人とに分かれます。

 受け取れないのは、この世に思いがあって信仰の歩みをしていなかったり、霊的なものが閉ざされた肉の人であったり、御霊を怪しむ不信仰の人であったり、人間の言葉に耳を傾け神のことを悟らない人であるからです。

 

 異邦人の時が完成すると、ユダヤ人の時になることが聖書に書かれています。

 御救いをゆだねられるのが、真理の御霊を持つキリスト者たちから、聖霊が留まるユダヤ人たち(「イスラエルのメシア」と「アロンのメシア」のふたりの証人、そして、十四万四千人のユダヤ人)に移行するのです。

 

 キリスト者たちは御救いのみことばを持っています。神の御子イエス・キリストによって授けられた聖霊(真理の御霊)によって教えられ、いのちの道へと導かれるのです。

 

 恵まれたキリスト者は、真理の御霊を宿す新しい創造の人です。彼らは、霊の耳が開けて神の御声を聞き、霊の目が開けて神の栄光(奇蹟やしるし)を見ます。主がともにおられるからです。

 

 御霊に導かれて聞き従う忠実なイエスのしもべたち(キリスト者)は、異邦人の時に完成する御霊の教会の人々です。

 神の御霊に忠実なキリスト者は、殉教者として信仰の勝利者に数えられます。

 

 また、忠実なキリスト者のうちで神に選ばれるキリスト者は生きたまま天に引き上げられます。携挙される人々です。

 この携挙される御霊の教会は、キリスト者の教会ではありません。神に選ばれたキリスト者もいれば、神に選ばれた神道の人や見えない神に忠実なしもべたちの教会です。様々な民俗信仰などから集められる魂です。霊とまことによって、生けるまことの神に仕えた魂です。

 

 キリスト者だけが救われるのではないのか、とがっかりしてはいけません。

 ユダヤ人ビリーバーも、異邦人のクリスチャンも、キリスト者の殉教者たちの御霊の教会に属する人々は、新しい天に住まいが設けられる恵まれた人なのです。

 

 彼らは、聖書を信じて、憧れていた、天の御国にはいることができるのです。

 

 異邦人の時に、真理の御霊を宿すキリスト者たちは、キリストの贖いの血の力を信じて、国土の贖いときよめを祈り、同胞の救いを執り成し、祈りを積み上げて来た人々です。

 彼らは肉眼で見ることはないかも知れませんが、確かに祈りは聞かれ、日本人は覚醒し、多くの人々の思いが永遠に向けられて、真理を悟る時が来ます。

 

 リバイバルが起こると、聖霊が注がれて、キリスト教会に多くの人々が集まると思われて来ましたが、実は、神はキリスト教会だけではなく、御自分のしもべのいる神道や仏教や無宗教の日本人、大和魂の人々に、真理の御霊をそれぞれの場で注がれるように思います。

 

 神は、神の御子イエス・キリストを信じるキリスト者をないがしろにはされません。異邦人の時に、彼らによって一つの御霊の教会を完成されます。

 神は、殉教者のキリスト者を墓から甦らせて、天で行なわれる神の子羊の婚宴に招かれるのです。

 

 神の国のためにいのちをささげた殉教者ではない、キリスト者の死者の魂は、世が改まる(キリストが地を治めるために来られる)時まで、墓の中で眠っています。

 彼らが墓から甦る時は、千年王国でキリストとともに世界を治める王となる時です。彼らは、神が神の子どもたちに用意される永遠の住まい「新しい天と新しい地」の新しい地に住まう人々です。神の子羊の婚宴に招かれませんが、永遠のいのちを得る神の子どもたちです。

 

 神は、キリスト者の救いを忘れてはおられません。神は、彼らを死から甦らせて、キリストが治められるイスラエル王国の神とキリストとの祭司とし、キリストとともに、千年の間王とされるのです。

 

 生き返って、キリストとともに、千年の間王となる死者は、第一の復活にあずかる者です。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返りません。これが第一の復活です。

 

 「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死(永遠の火の池の裁き)は、なんの力も持っていない。」(黙示録20:6)

 

 殉教して世からさるキリスト者がいます。

 生きたまま携挙されるキリスト者もいます。

 

 殉教者たちは、墓から甦って天に引き上げられます。

 キリスト者の墓で、墓の中から掘り起こされたような不思議なしるしのある墓の死者は殉教者です。掘り起こされることなく死者が眠ったままのキリスト者の墓は、キリストが地上に再臨された時に甦るキリスト者なのでしょう。

 

 殉教者たちの甦ったその後で、携挙が起こるようです。

 

 異邦人の時に完成する御霊の教会のキリスト者たち(殉教者の教会と携挙の教会)は、神に忠実な御霊の人(聖霊の宮)であり、神の子羊の婚宴に招かれる人々です。

 

 墓に眠ったままのキリスト者や、反キリストの像を拝まなかった人、反キリストの刻印を押されないように、命がけで信仰を堅く守った死者たちは、生き返って、キリストとともに、千年の間王となるのです。

 

 「多くの証人たち(信仰の先人たち)たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たち(キリスト者)も、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争(罪と悪魔に勝利する信仰の道)を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

 信仰の勝利者であり、完成者(死から甦った新しい創造の第二のアダム〈新しい人〉)であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜び(天の御国の栄光)のゆえに、(人々の嘲りと中傷と)はずかしめをものともせずに十字架(の苦難と痛みと恥と孤独と死)を忍び、神の御座の右に着座されました。(あらゆる忍耐によって耐え忍び、信仰を全うするならば、信仰の勝利者としての栄誉を神から受け、キリストとともに天の御国を相続します。)

 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方(神の子羊イエス・キリスト)のことを考えなさい。(キリストの信仰にならいなさい。)それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(信仰の勝利者となるためです。)」(へブル12:2、3)

 

 信仰を守り通して、義の栄冠を受けましょう。