ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

キリストを信じた救いの証③ ー罪がわかったー


  家に帰って、教会の姉妹から「ビリーグラハム東京大会」のカセットテープを借りていた事を思い出しました。

  返す前に一度聞いておかなければ、と思い、一本二本と聞き進めました。大群衆の賛美は迫力がありました。

  ビリーグラハムの声も杭を打つように、的を得た力強さがあり、言葉は短くはっきりとしています。通訳者の言葉を聞きながら、言葉一つ一つを捉えようとしました。

  最後のテープを聞いた時に、自分の罪がはっきりと分かったのです。今まで、どこか刑務所に入る罪が罪で、自分が罪人って事はいまいち理解出来ないでいました。

  でも、何がどうとは説明出来ないですが、私が思っていた罪とは違う罪、生きている事自体が罪深さの中にあるというような、存在そのものの罪深さみたいなものを私の魂がキャッチしたようでした。

  しかも、その罪の責任をとって、罪を自分で始末しなくてもいい。神が始末して下さった、と分かったのでした。

  ただ涙が流れました。神にとらえられたような感じでした。頭で考えるのでも、知識として受け取るのでも無い、心が開かれるような感じでした。

  好きな人から、愛を告白された時の天にも昇る喜びと優しい気持ち、愛されている事を知っただけですべてが報われるような、存在あげての喜びのような心持ちでした。

  愛を知ったら怖いものはありません。この愛の中に私のすべてがある、という希望の灯が心に灯ったようでした。

  理屈ではなく、神を受け入れました。この時が私の救われた時だったのかも知れません。

  宣教師に心無い質問を浴びせ掛けた手前、宣教師の教会に行く事にためらいがありました。

  教会の年下の姉妹から、「一度でも教会に来た人は、神が呼んでおられる人だと思います。祈ってます」という手紙を頂いていました。

  教会の親切にして下さった長谷川姉には、ご自宅にビリーグラハムのカセットテープを返しに行きました。

  神には、教会に行きます、と誓っています。どうしようかと思っていました。神との約束は守らなければならないと考えました。

  すると、もう一軒プロテスタント教会がある事に気づいたのです。福音教会という名前なので、キリスト教会だと思っていませんでしたが、キリスト教会だったのです。

  日曜日にその教会の礼拝に出席しました。若い子の多い明るい教会でした。礼拝のメッセージは覚えていませんが、礼拝中、ただ涙が流れっぱなしで、泣いていました。

  「神様、ごめんなさい。あなたから離れようとしてごめんなさい。イエス様、もう離れません。ごめんなさい」と、心の中で言い続けていました。

  礼拝が終わると初めて伺った教会なのに、皆と掃除をしたり教会のメンバーのように動きまわりました.。

  牧師は日本人でした。牧師に洗礼をお願いしました。クリスマスに受洗する洗礼者がいる。受洗者には三か月間の学びの準備期間が必要だけど、その学びはもう終了している。普通は次のイースターの洗礼式になるけど、特別に学び無しで洗礼を受てもいい、と許可して下さったのです。

  晴れてクリスマスの礼拝で、四人の人と共に洗礼を受ける事が出来ました。五つ子のクリスチャンの赤ちゃんの一人として、キリストのいのちを生きる者となったのです。

  洗礼とは、浴槽のような洗礼槽に水を張り、牧師の宣言とともに一度水の中に全身頭も浸かり、水から上がるのです。


  これは、この世の支配者の生き方、肉に死んで、霊で甦り神の子となるという意味があるようです。

  それが不思議なのです。洗礼を受けて教会を出ると、目に入る景色が色鮮やかに見えたのです。いつもの景色が輝いて見えるのです。

  雨上がりの木々のように艶があり、小雨の中の紫陽花のように生き生きとして見えるのです。

  翌週、他の人も同じ事を言っていました。先輩の人もそうだった、と言ってました。

  まさに、死んでいた者が甦ったのでした。これは、神の子らが体験する奇跡でした。人は新しく生まれなければ神の国を見る事が出来ません。とイエスはいっておられます。

  「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入る事が出来ません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」ともいっておられます。

  こうして、水によって生まれたのでした。