ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

傷と癒し

 

  この世の君は、悪魔です。悪魔は神に敵対する者です。天から追放された悪魔は、神が造られた人を自分の支配下に置くことで、神に勝利していると誇っています。

 

  神の霊は、従順、柔和、愛、喜び、平安、平和です。

  悪魔の性質は、反逆、背き、不従順、敵対、憎しみ、怒り、争い、暴力です。人が、悲しむ事、憎しむ事、嘆く事、怒る事、裏切る事が大好きです。

 

  人は生まれながら、悪魔が与えた罪を犯す原罪を抱えています。神に従うことが出来ない性質です。この原罪があるので、自制心を働かすことが出来ません。これをしたら良いと頭ではわかっていても、することが出来ません。これをしたらいけないとわかっていても、止められません。

 

  赤ちゃんは、教えられてもいないのに、自分の都合の悪いことにはそっぽを向いて誤魔化します。大人が「だめ」と言うことを、あえてやります。おもちゃを奪い合います。気に入らないと人を叩きます。自我という主人が赤ちゃんの中にすでにいるからです。

 

  神の国では、神が主人です。神以外のものを主人とするならば、神の国に入ることが出来ません。悪魔は神と同じように主人になりたかったのです。それで、悪魔は神の住まいから追放されました。

 

  この世では、悪魔が働くことが許されています。天から追放された悪魔は、この世の支配者、この世の君として、君臨しています。

 

  悪魔が人間の思いに働くと、人間はそれが自分の思いだと信じて、悪魔の思い通りに動きます。人間は悪魔の奴隷です。人間は、そのことを理解していません。神も悪魔も、目には見えない存在なので、存在しているのかどうかもよくわからないのです。

 

  赤ちゃんで生まれてから、大人になる過程で、人それぞれの体験をします。環境がその人の人生に大きな影響を与えます。穏やかな環境で育つ子もいれば、厳しい環境で育つ子もいます。暖かな愛に育まれる子もいれば、愛の薄い環境で耐える子もいます。

 

  同じ家庭で育っても、上の子と下の子では家庭の状況が変わる場合もあります。全く同じということはありません。同じ家庭で育った兄弟でも、父親に対しての印象や母親に対しての印象は異なります。父親や母親や兄弟とどう関わったかは、ひとりひとりの個人的な体験なのです。

 

  人それぞれ自分自身の体験を通して感じているので、自分がこう感じたからと言って、他の人も同じように感じるとは限りません。共有する部分もあれば、理解できない部分もあります。自分と全く同じ人はいないのです。

 

  もともと人は、霊的存在であって、神の中にいました。神の中に居た時は、自我というものがなく、神が私だったのです。自分の中心は神だったのです。自分が神と言うことではなくて、神の中にいたので、自分と言うものを持たなくてよかったのです。

 

  この世では、悪魔が主人です。もともと神とひとつであった人は、悪魔の中には入りません。悪魔の中に居心地の悪いものを感じるからです。しかし、悪魔の奴隷です。悪魔に支配されて苦しみます。

 

  神に近い心持ちの人もいれば、悪魔のような心の人もいます。しかし、悪魔そのものではありません。

 

  人間は生まれた時に、愛に応答する心をもって生まれて来ています。しかし、環境によっては、歪んでしまいます。子どもは偽りを見抜く力にたけています。真実でない言葉や態度に傷つく子もいれば、偽りを受け入れて真実を避けて生きる術を身に着ける子もいます。

 

  親から虐待を受けた子は、自分の子どもにも虐待を連鎖させます。自分の育てられたように育ててしまうのです。いけないことだとわかっていても、それを親の愛情だと自分に思い込ませて耐えて来た過去の自分が、無意識に自分の母親と同化させて、自分の存在を肯定しているかのようです。母親の愛を信じたいのです。

 

  実は、虐待した母親自身が子どもの頃、自分の母親に虐待を受けていたのです。つまり、おばあちゃんがお母さんを虐待して育てたということです。母親も子どもの愛し方がわからないのです。

 

  人は環境が違うことこそあれ、皆傷ついて育っています。何らかの慰めを得て、あるいは確かなものを求めて乗り越えようとしているのです。

 

  悪魔はこの傷を用いて、自分の囲いに引きずり込んでいくのです。

 

  アメリカで二十年以上暮らした、クリスチャンから聞きました。十三年以上も前の話です。アメリカでは、男性なのに女性の恰好をして教会に来る人は普通にいるそうです。教会の人々は、普通に接します。誰もそのことについてとやかく言う人はなく、一人の来訪者としてともに集い、礼拝します。その人が恥ずかしい思いをすることも、居心地の悪いをすることもありません。

 

  自分の体は男性だが違和感があった。しかし、女性として生きることを選んだら生きるのが楽になった。自分らしい生き方が出来るようになった、と言う人です。

 

  しばらく教会に通っていて、その人は、イエスと教会に安らぎを覚え、洗礼を受ける決断をします。洗礼を受けて、教会員として教会に集います。賛美と祈り、礼拝、キリストにある兄弟姉妹との交流を続ける中で、神御自身がその人に触れ、本人も気づかない心の傷を癒して行かれます。その人の心のうちに変化が起こります。

 

  神の愛がその人を包み、傷の痛みからの解放が進んで行きます。自分は愛される存在であることを確認していきます。すると、自分は男性であることに気がついたのです。誰に教えられたのでもなく、傷が癒されたら、男性として神が自分を造ってくださったのだ、とわかったのです。自分は女性なのだと思って生きて来た彼は、新しく生まれて、男性として生きる人生を掴んだのでした。彼は、神が用意された人生を歩み出しました。

 

  神はその人を誰よりもご存じの方です。本人よりもよく知っておられるのです。神は小言を言うお方ではありません。その人の悩みの源を知り、傷ついた人には愛に包んで優しく抱き、懐の中で造り変えるお方です。

 

  イエスは罪に定める方ではなく、人の悲しみや嘆きや痛みを理解し、慰め包み愛を注ぎ、いのちを与える方です。

 

  固い地に憐れみの水を注いで柔らかくし、種が根を生やし芽を出すのを忍耐を持って育てる神なのです。人があきらめなければ、時が来れば、神は、恵みの御霊のわざによって、人を新しいものに造り変えられます。

 

  イエスは癒し主です。キリストの霊によって癒された人は、イエスの愛を体験し、慰めと恵みに満ちた神を知るのです。神は、良きお方です。

  主は良き神です。主イエスは、癒し主であり、救い主です。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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