ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

聖書の権威⑲ー礼拝ー


  大洪水から救い出されたノアが、箱舟から出て来て最初に行ったのは、主の祭壇を築く事でした。

  ノアは、祭壇の上で全焼の生贄を献げました。

  神は、なだめの香りをかがれて、「わたしは、決して再び人のゆえに、この地を呪う事はすまい。わたしは、決して再び、わたしがしたように、すべての生き物を打ち滅ぼす事はすまい」といわれました。

  今の地上の営みは、ノアから始まっています。

  今の地上は、神に祭壇を築き、神を神として畏れたノアによって、創造主と被造物の関係が正しくリセットされて、スタートしました。

  今の地上は、創造主を仰ぎ、神を礼拝する事で始まったのです。

 
  イスラエルの地で、ダビデの子ソロモン王が主の宮(イスラエルの神の神殿)を建てました。


  祭司達は、契約の箱を至聖所のケルビムの翼の下に運び入れました。祭司達が出て来たとき、主の栄光の雲が主の宮に満ちました。

  契約の箱の中には、二枚の石の板のほかには何も入っていませんでした。アロンの杖と、マナの入った金の壺は無かったようです。

  神の選ばれた地エルサレムに、主の神殿が建てられました。主の神殿が建てられた事のうちには、イスラエルの王(キリスト)が、世界を治める王となる、というサインも隠されているようです。

  アロンの杖は、レビ族のアロンの子孫が祭司の務めをする、という神の契約でした。

  キリストが来られて、キリストを信じる者の心に律法を書き記し、聖なる祭司とされます。もはや、神の祭司の務めは、レビ族だけのものではなく、また、ユダヤ民族の特権でも無くなりました。

  天からのマナを与え、荒野でイスラエルを養われた神は、イスラエルに預言者を送り、神のことばを与えました。

  キリストが来られて、キリストのことばで、人々の霊を生かされます。天から与えられるパンは、マナではなく、キリストのことばであり、信仰を更新させるキリストのからだ、聖餐のパンです。


  ユダヤ民族に残されたのは、モーセを通して神がイスラエルに与えられた十戒であり、律法でした。

  律法は、キリストが来られた後でも、ユダヤ民族が守り続ける神の民のしるしです。イスラエルは、神の所有、聖なる国民として、神の家の中に置かれているのです。
その事は、イスラエルの召命、神との契約は残されたままだ、という事です。

  ソロモン王の時代に、主の栄光の雲に満ちた主の宮の中に置かれた契約の箱のように、イスラエルの王(キリスト)の都では、神の所有であるイスラエルが仕えます。


  現在、世界中でキリストの父なる神に礼拝が献げられています。ユダヤ人も異邦人も区別なく、地上の人々が罪を贖われたイエスを讃え、イエスの御名で祈り、キリストのことばを仰ぎ、主に感謝と賛美と献げ物を持って、神を礼拝しています。

  日々の重荷をおろして、神の御前で賛美を献げ、祈りを献げ、献金を献げ、聖書のことばに耳を傾けます。

  「主よ、お話し下さい。しもべは聞いております」と主に祈りながらメッセージを聞くならば、神が語られる一語を捉える事が出来ます。

  牧師の言葉として聞いている時には神を感じる事が出来なかったメッセージなのに、閉じていた耳が開かれるのか、或いは、神が牧師の唇に言葉を与えられるのか分かりませんが、神が働いて下さるようです。

  このような経験をすると、礼拝に神が働いておられる事、天と繋がっているものだと感じる事が出来ます。


  神は、霊と真をもって礼拝する礼拝者を求めておられます。

  イエスはいわれました。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊と真によって礼拝しなければなりません。」

  神が良くして下さった一つ一つの事を思い出して、神に感謝を献げましょう。心と思いを神に向け、神に向かって賛美し、神のことばに耳を傾けましょう。

  神は、そのような礼拝者のうちにみわざを現わしていかれます。


  日々の生活にも、礼拝はあります。

  「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い生きた供え物として献げなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」とパウロは言っています。

  「この世と調子を合わせてはいけません。神の御心は何か、何が良い事で、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」とも言っています。

  生き方そのものが、礼拝なのですね。


  ユダヤ人は、ホロコーストの苦しみの中、明日は殺されるかもわからない状況でも、安息日の土曜日に集まって、同胞が殺されているその場所で、神に礼拝を献げたという事を聞きました。

  これが神の民の姿なのですね。自分達の状況に関わらず、恨み言ではなく、神を礼拝する。ユダヤ民族は、安息日が身にしみついた民族です。

  
  安息日は、人が神の前に出て、安息する日だと思っていたら、神の御前に出ている人々をご覧になって、神が安息される日でもあるそうです。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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