ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イエスはすぐれた生贄

 

  神はひとり子(御子)を、生贄の神の子羊として地に遣わされました。神が用意された子羊は、傷の無い、完全で聖なる神の子羊イエスでした。神の御心にかなう、唯一の罪の生贄です。

 

  イエスは、罪にまみれ、暴虐に満ちた世から救い出すために、罪人の身代わりとして、十字架で罪の呪いを受けて死ぬために、この世に遣わされた人の子でした。生まれながらに十字架の死を負う、贖いの子羊だったのです。

 

  神の子羊イエスの出現は、七百年も前から、イスラエルの預言者達に啓示されていました。千年も前のダビデ王の詩編でも、ダビデの子孫の「ダビデの子」と呼ばれる、主キリストについて書かれています。

 

  イエスは、神のことばとともに歩み、神のことばのうちに生きられました。ユダヤ人の誰ひとり完全に守れなかった律法をイエスは完全に守り、ご自分において律法を全うされたのです。

 

  律法を全うされたイエスは、神の義を現わす、聖なる神の子羊です。律法の下にいるユダヤ民族の罪を贖う、完全な生贄でした。

 

  契約は、血によって成立します。モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言いました。またモーセは、幕屋と礼拝のすべての用具にも同様に血を注ぎかけました。

 

  律法によれば、すべてのものは血によって聖められる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。罪の赦しのために、傷のない生贄が必要です。

 

  天にあるものにかたどったものは、血によって聖められる必要がありました。しかし、天にあるもの自体は、これよりも更にすぐれた生贄で、聖められなければなりません。

 

  年ごとに自分の血でない血を携えて、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分(神の子羊イエス)の血によって、ただ一度、天そのもの(まことの聖所)に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

 

  キリストは、ただ一度、今の世の終わりの時代に、ご自身を生贄として罪を取り除くために、来られました。

 

  そして、人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっているように、キリスト(神に油注がれた救世主)も、多くの人の罪を負うためにご自身を献げられたのです。

 

  律法は、後に来る素晴らしいもの(天)の影であって、天の実物ではありません。律法は、年ごとに絶えず献げられる生贄によって神に近づいて来る人々を、完全にすることが出来ません。

 

  罪は聖めても、良心を聖めることは出来ないのです。これらの献げ物によって、罪が年ごとに思い出され、罪を意識します。雄牛とやぎの血は、罪を除くことが出来ません。

 

  キリストは、この世界に来て、こう言われました。

  「あなた(父)は、生贄や献げ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼の生贄と罪のための生贄とで満足されませんでした。

  そこで、わたしは言いました。

  『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについて記されている通り、神よ、あなたの御心を行うために。』」

 

  初めに、「あなたは、生贄と献げ物、全焼の生贄と罪のための生贄(すなわち、律法に従って献げられる、いろいろな物)を望まず、またそれらで満足されませんでした」と言われました。

 

  次に、「さあ、わたしはあなたの御心を行うために来ました」と言われたのです。神が満足されない、初めにあったことが廃止され、イエス・キリストのからだをただ一度献げることで、神の御心が満足されるのです。

 

  すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、生贄を繰り返し献げますが、それらは決して罪を除き去ることが出来ませんでした。

 

  しかし、キリストは、罪のために一つの永遠の生贄(イエス・キリストのからだ)を献げて後、神の右の座に着き、それからは、その敵(悪魔)がご自分の足台となるのを待っておられるのです。

 

  キリストは聖なるものとされる人々を、一つの献げ物(神の子羊イエスの血)によって、永遠に全うされたのです。

 

  主は、エレミヤを通して仰せられました。

  「見よ。その日が来る。―主の御告げ―その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。

  その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。―主の御告げ―

 

  彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。―主の御告げ―わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

  

  そのようにして、人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らが皆、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。―主の御告げ―わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

 

  聖霊も証されます。「わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」御霊は、キリストのことばを語られるのです。

 

  イエス・キリストを信じる者は、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることが出来るのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私達のために、この新しい生けるいのちの道を設けてくださったのです。

 

  へブル書に、こう書かれています。

  「キリスト・イエスを信じる私達は、心にキリストの血の注ぎを受けて邪悪な良心を聖められ、からだを聖い水(水のバプテスマ)で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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