ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

聖書の権威㉖ー罪と義と裁き


  イエスは、ご自分が昇天し、世を去った後、助け主(真理の御霊)を遣わす、と約束されました。

  イエスはいわれました。

  「この方が来ると、罪について、義について、裁きについて、世にその誤りを認めさせます。」

  世の人々は、この世の法の中で生きています。宗教は、この世の法にのっとって作られた最上の法です。

  神の法は、神が造られた法であって、人間が作った宗教とは異なります。

  神の御前では、この世の人間の法は役に立ちません。


  神の法は、複雑ではありません。シンプルで明解です。

  イエスはいわれます。

  「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。

  また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。

  裁きについてとは、この世を支配する者が裁かれたからです。」



  人の悪魔に従った罪、罪によって受けた死の呪いを取り除かなければ、人は、罪の中で死んで滅び、悪魔と同じ運命を辿ります。

  人は、悪魔と同じ運命を辿る事で、神の怒りを受ける者となりました。

  人を救うためには、人の罪を生贄の子羊で贖われなければなりません。

  神の怒りを鎮めるための生贄の子羊、悪魔が与えた死の呪いを身代わりに受ける子羊として、父なる神は、御子を、イエスという名で人の子としてイスラエルに遣わされました。

  イエスは、神に忠実な天上の生き方を全うしました。イエスは、この世のものではありませんでした。

  イエスは父とともにおり、父のことばを語り、しるしと奇跡、癒しのわざを行い、神について、神の御国について、永遠のいのちについて教えました。

  イエスの教えは、ユダヤ人が大切に守って来た、人の言い伝えに異を唱えるものでした。ユダヤ人の間違いをただし、叱責もしました。

  イエスは世に調子を合わせる事はせず、父を第一として、人の目に見えない神に仕えました。

  ユダヤ人は、先祖の教えを尊び、人の言い伝えを重んじました。そして、先祖の神が遣わされたイエスを蔑み、イエスによって明らかにされた父なる神を侮りました。

  世は、イエスを憎み、神が遣わされたキリストである、神の権威に従うイエスを信じませんでした。

  世は、神よりも自分達を愛しました。イエスを退け、神よりも世を愛しました。

  そして、神が用意された救いを拒んだのです。


  「罪」とは、イエスを神が遣わされたキリストである、と信じない事です。

  この罪は、永遠に残ります。

 
  十字架で人々の罪を処分されたイエスは、死とハデスに勝利し、復活しました。

  イエスは、復活したからだで弟子達に会い、弟子達をキリスト・イエスの復活の証人とされました。

  イエスは、使徒の見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられました。

  神は、復活のキリストをその名を高く上げて、父の右の座に着かせられました。

  人が、イエスをキリストとして認めなくても、神は、イエスをキリストとして、キリストのために、子羊の座を設けて永遠に誉れある者とされました。


  「義」とは、キリストの十字架の死と復活と昇天。神が遣わされた神の子羊イエスの贖いのわざであり、罪人の魂を救う救いのわざが完成した事です。

  神は、キリスト・イエスとともに死に、御霊によって新しく生まれ、永遠のいのちと復活のからだを得る者、つまり、十字架の主イエスを信じる事で肉の思いや肉の行いに死に、御霊による新しい創造をされた、天に帰る者を創造されるのです。

  神は、キリストを信じ、キリストの足跡をたどる者、神に受け入れられるために、神の御心に焦点を合わせ、心の一新によって自分を変え、聖なる者とされるもの、神に信頼する者を神の子とされます。


  裁きは、人を裁くためではなく、神に敵対し、自らが神になろうとする悪魔を裁くためなのです。

  この世を支配する悪魔は、この世の心遣いと富の惑わし、人間の欲望を満たす事をあおり、この世に執着させて、神の聖なるわざを蔑み、キリストを憎ませます。

  悪魔は神を、人を裁く恐いものとして恐れさせ、神を愛することを妨げます。

  しかし、裁きは悪魔に用意されたものでした。

  神は、十字架で罪を負わせた贖いの子羊の死によって、悪魔の呪いを砕かれました。キリストが悪魔に勝利したのです。

  罪の呪いを砕くことは、罪にとらわれていた人の救いであるとともに、罪に捕らえていた悪魔の滅びを宣言する事でした。 

  悪魔は神に裁かれました。悪魔は捕らえられて、火の池に投げ込まれ、永遠に滅びる事が明らかになりました。この結果は、変わる事はありません。

  悪魔を滅ぼす事は、悪魔に繋がる者すべてがともに滅びる事です。


  「裁き」とは、この世を支配する悪魔が裁かれたという事です。

  悪魔が裁かれたので、主キリストに向くならば、悪魔の支配から救い出されるのです。

  天に上られたキリスト・イエスに結びつかなければ、世の人は悪魔の裁きと共になるのです。 

  イエス・キリストに繋がる者は天に上り、悪魔に繋がる者は地に下るのです。


  神の法は、シンプルで明解です。

  「罪」とは、神が遣わされたキリスト・イエスを信じない事です。

  「義」とは、神から遣わされたキリストが、十字架の死と復活による救いのわざを完成して、遣わした方のもとに帰られた事。そして、キリストを信じ、イエスは主と告白する者を神の義として、永遠のいのちを与え、キリストとともに、神の国を相続する神の子とする事です。

  「裁き」とは、この世を支配する悪魔が裁かれた事。そして、神の義(キリストの死と復活のわざによる救いを信じるか、信じないか)によって、世を裁く事です。