ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

いのちの木

 

 神は仰せられました。

 「見よ。人はわれわれ(御父、御子、聖霊)のひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」(創世記3:22)

 

 天から落ちた堕天使の救済のために、神は「試みの木」を植えておられました。

 神に逆らい自分の力で生きることを望む者は、善悪を知る知識の木の実を慕います。彼らは、神のような知恵を求めるのです。神御自身ではなくて、自分が神のようになろうとするのです。

 

 神が塵から造り息を吹き込んだ「人」は管理者でした。なんと、神から管理者の任務を託された管理者自らが神のような知恵が得られるという、善悪を知る知識の木から実を取って食べてしまいました。そして、神に背いた堕天使の道に入ってしまったのです。

 

 天使長ルシファーに従い天から追放された堕天使たちはうめいていました。悪魔と化したルシファーの手下となって働く悪霊となった堕天使たちとは意見を異にする彼らは、悪魔に苦しめられていました。彼らは、神のようになりたいとは思っていませんでした。

 

 悪霊にならなかった堕天使たちは、光を求めて、闇の中でうめいていたのです。

 

 管理者である「人」も、悪魔の言葉にそそのかされて、知識の木の実を食べて、神の主権に逆らう者となりました。神の光のうちにいた人は、神の命令に背き、悪魔が支配する闇に落ちました。

 

 悪魔の食べ物である「善悪を知る知識の木」を試みのために置くのを許された主は、光の中で生きるいのちの実を実らす「いのちの木」を植えておられました。(善悪を知る知識の木は、悪魔が植えた木かも知れません。)

 

 いのちの木の実は、永遠に生きるいのちの実のようです。光の中で生きる、神に従順な者の食べ物です。

 

 光には暗いところがありません。闇は存在しないのです。背きも怒りも妬みも憎しみも呪いも不従順もありません。全能の神を主とする全き光です。神が光であって、光の中で、すべてのものは、神の主権にへりくだり、神のことばに従順です。一糸乱れぬ、完全な調和で保たれています。

 

 いのちの木は、神に従順なしもべたちのために、植えられていました。いのちの木の実は、神の主権にひれ伏し、神に従順な光の子どもたちの食べ物でした。

 

 しかし、管理者である人が闇の食べ物を食べて、光から追放されてしまいました。管理者を失い、光に帰る道はふさがれました。

 

 神は、光の食べ物、いのちの木の実を、闇に落ちた者たちから守られました。暗い者たちが、いのちの木の実を食べて、永遠に生きる者とならないためです。

 

 神は、「われわれ(御父、御子、聖霊)に似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」と目的と愛をもって、人を造られました。人は、神の愛の交わりの中で、喜びをもって造られたのです。

 

 神には、ひとり子がいました。神は、ひとり子のために、ひとり子とともに人を造られました。人は、御子の喜びであり、楽しみだったのです。

 

 われわれのようにと造られた人を、神は非常に良いと満足されました。神が満足された被造物(ひとり子のために造られた人)が、神に敵対する悪魔に捕えられてしまったのです。

 

 いのちの木は、神の権威によって閉ざされました。人は死ぬ者となりました。死が入った人も、悪魔を裁くために設けられた永遠の火の池に向かっています。そこは、のちに、死も闇も投げ入れられる場所です。

 

 人のうちにある暗さを除かなければなりません。暗さとは、神の主権に逆らい、悪魔の支配に服する心です。神のことばを侮り、悪魔の言葉を受ける心です。神に敵対し、悪魔を正しいとする心です。自分が正しいとし、神を訴える心です。自分を義とし、神を罪に定める心です。

 

 神は、人の暗さを取り除き、いのちの木の実を食べさせて、永遠に神のひとり子とともに生きる者とするために、彼らの罪の身代わりに、生贄の子羊を用意されました。

 

 神のひとり子は、罪人の裁きの身代わりとなるために、肉体をもって、「人の子イエス」となって、天から地に下られました。神のひとり子は、人を愛して、生贄の神の子羊として屠られるために、イスラエルに遣わされたのです。

 

 御父、御子、聖霊が、心ひとつにし神の愛の中で、われわれのかたちに造られた人に、御父、御子、聖霊のひとつ心とひとつ愛の中で、暗さを取り除くわざと、聖とするわざと、永遠に生かすわざを施されたのです。

 

 御父に遣わされた御子が、人の子イエスとなり、肉裂かれ、罪の生贄の神の子羊として十字架で屠られました。神が用意された生贄の子羊は、死の呪いの力を打ち砕いてくださいました。

 

 十字架で流された神の子羊の贖いの血は、人の罪を赦し、暗さをきよめてくださいます。イザヤ1:18に書いてあるとおりです。

 「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』」

 

 神は、子羊イエスの血できよめ、贖いのキリストの血によって、罪を犯さなかった者のように白くしてくださいます。罪は、白い雪に覆われた瓦礫のように白くされ、神の御目はキリストの血をご覧になって、「あなたの罪は赦された。あなたは聖い。」と宣言してくださるのです。

 

 神は、御自身で、人の罪を赦し、人を義とするご計画を立てられ、贖いの血を用意されたのです。

 

 聖霊は、十字架で死んだ贖いの子羊イエスを、死から甦らせ、墓から生き返らせ復活させられました。

 

 「われわれ」と仰せられる神は、神の子羊イエスの十字架のわざで罪を赦し、十字架で流された子羊イエスの贖いの血で罪をきよめ、子羊イエスの復活によって永遠のいのちを与えることを、暗さを持ち、闇の中でうめく「死にゆく罪人」に、約束されたのです。

 

 いのちの木を閉ざされたのが神ならば、地上にいのちの木を遣わされたのも神です。天に上れない地の人々に、天から地にいのちの木に導く道であり、いのちの木である救い主キリストを下らせました。「われわれ」と仰せられる神は、憐れむ神です。罪人が死ぬことを望んではおられません。

 

 神が遣わされたいのちの木(神の御子イエス・キリスト)に繋がる者は、義の実(神の御子イエスを主キリストと信じて、神に義とされる)を結ぶ枝となり、永遠に生きる者となります。

 

 また、復活のキリストがイスラエルの王となって治められる千年王国では、王の住む都の中に、いのちの木があります。子羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、都に入ることができます。キリストを王として尊び、イスラエルの王を礼拝しに来る者たち、思いと行ないをきよめていのちの木の実を食べる権利を与えられる者は、門を通って都に入れるのです。(黙示録21:27,22:14)