ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

苦難に隠された神の愛


  「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」聖書 第一コリント10:13

 

  神は、ひとりひとりをよく知っておられます。身体的苦痛の耐性を持つ人、精神的苦痛の耐性にすぐれた人。身体的苦痛には耐えられるのに、精神的苦痛には弱り果ててしまうのか、どの程度ならば、乗り越えられるのか。


  神は、ひとりひとりの特性に合わせて、取り扱われます。その人を倒すためにではなく、価値のないものを取り除いて、すぐれた者にするためです。


  すぐれた者とは、神の御前で生きる価値ある者、永遠のいのちを受ける者のことです。

 

  「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。罪人達の反抗を忍ばれた方、イエスのことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです」と聖書はいいます。

 

  人は、イエス以上の苦しみを受ける事はありません。自分の苦しみよりも、もっと大変な苦難を乗り越え耐え抜いた人の在り方に、勇気がもらえます。 

 

  すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

 

  キリストにあって、耐え抜いた人は、苦しみの中で、主を呼び求め、主に近づきます。神との関係が深くなるのです。苦しみに出会わなかったら、それほど神を求めなかったことでしょう。

 

 

  羊飼いの話を聞いた事があります。羊飼いの声に従わずいつも群れから外れ、自由気ままな困った羊を正すのに、あえて羊飼いはその羊の足を打ち骨折させます。そして、群れが移動するときにはどこに行くときにも、羊飼いがその羊を抱いて連れて行きます。その羊は、骨が回復するまでの間中、羊飼いの傍らにいて羊飼いの懐にいます。

 

  骨が完治する頃には、その羊は群れの中でも最も従順な羊となっているというのです。

 

  不思議ですね。自分の足の骨を打ったのは、羊飼いです。痛みを与え、自分を不自由にしたのは羊飼いなのです。羊飼いを訴え憎んでもおかしくありません。

 

  しかし、羊は羊飼いの大きな守りの中で安らぎ、羊飼いを知ったのでした。羊は、足の傷を見て、痛みに悲しむのではなく、羊飼いの腕の中で、羊飼いの温かい懐に抱かれて、羊飼いの優しさに安らぎ、愛を知ったのです。

 

  そして、羊飼いに信頼する羊になったのでした。他の羊達が体験していない、羊飼いとの個人的な関係を築いたのです。羊の群れの中の一匹であったときには、気づかなかった羊飼いの保護を知ったのでした。

 

  苦痛や悲しみに目を向けている間は、羊飼いを見る事はありません。羊飼いは自分の足を骨折させた悪い人だと思うだけです。

 

  羊飼いが自分を憎んでいると思い、羊飼いを疑い憎み続けるのかも知れません。

 

  神は、人を知っておられる方です。神の試練は、その人を倒すためではありません。倒したのは、神に助けを求めさせるためです。

 

  神は、そこで踏ん張って立ち続けることを期待しておられるのではなく、泣き崩れて神を求め、神にすがる姿を望んでおられます。

 

  人は弱くていいのです。神が強い方だからです。自分の弱さを知ること、自分の知恵や力に頼らず、神ご自身に頼って欲しいと願っておられます。 

 

  苦しんだり悲しんだりする出来事は、何度も起こっているわけではありません。苦しみと悲しみの感情が、その人をその出来事の中に封じ込めているのです。

 

  苦しんだまま、悲しんだまま、神に自分の思いを吐き出してください。神は、聞いてくださいます。一緒に泣いたり苦しんだりしてくださるのかも知れません。神は、あなたの胸の内を最も理解してくださる方です。

 

  苦しみに、神は寄り添って下さいます。神との交わりの中で、神の優しさ、神の愛の広さ高さ大きさを知り、神がどんなに憐れみ深い方であるかを体験していくことでしょう。

 

  神を知ったとき、もはや以前のようではなくなります。神がどんなに慈しみ深く、恵みに満ち、愛と安らぎに満ちた方であるかを知り、神に感謝する者になります。

 

  苦しみも悲しみも、神の許しの中で起こったことで、そこには、自分への神の深い愛があることを知り、神に感謝する者となるのです。

 

  「苦しみにあったことは、神と出会うためでした。苦しみの中で神に叫ぶと、神は答えてくださいました。神は、苦しみに変え、永遠の安らぎを与えて下さいました」と、魂は安らぐのです。

 

  ダビデは言います。「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。」