ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

裁きは神の家から

 

 「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃え盛る火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。

 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上に留まってくださるからです。

 あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。

 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神を崇めなさい。

 なぜなら、裁きが神の家から始まる時が来ているからです。裁きがまず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。」(ペテロ一4:12-17)

 

 聖書には、裁きが神の家から始まることが書かれています。ペテロの言う神の家とは、イエス・キリストを主とする神の家のことです。つまり、キリスト教会のことです。

 

 キリスト教会が、真理の神の家であるならば、神の裁きを受けることはありません。神に裁かれるものがあるから、裁きを受けるのです。

 

 神の家、キリスト教会は試みを受けます。真理を愛する者と、そうでない者とが分けられるのです。

 

 旧約聖書には、神の家(エルサレム)の裁きについてこのように書かれています。

 「主は亜麻布の衣を着ている者を呼び寄せて、彼にこう仰せられた。

 『町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌み嫌うべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。』

 また、私(エゼキエル)が聞いていると、ほかの者たちに、こう仰せられた。

 『彼のあとについて町の中を行き巡って、打ち殺せ。惜しんではならない。憐れんではならない。年寄りも、若い男も、子どもも、女たちも殺して滅ぼせ。しかし、あのしるしのついた者にはだれも近づいてはならない。まずわたしの聖所から始めよ。』

 そこで、彼らは神殿の前にいた老人たちから始めた。」(エゼキエル9:3-6)

 

 イスラエルを奴隷の家から連れ出されるとき、神は、イスラエルの家々のかもいと門柱に羊の血を塗ることを命じられました。

 エジプトの地には、羊の血のしるしのあるイスラエルの家と、羊の血のしるしのないエジプト人の家とがあり、エジプトを打つために御使いがエジプトの地に遣わされてエジプトの地を行き巡りました。

 

 御使いは、羊の血のない家の初子を打ち殺すように、神から命じられていました。それで、羊の血のしるしのある家々を通り過ぎ、しるしのない家々を打って行きました。その結果、エジプト人の家々は死人のために泣き叫びましたが、イスラエルの家々には静寂がありました。

 

 御使いはエジプト人を選んで打ったのではありません。神に命じられたとおり、羊の血のしるしのない家々を打ったのです。イスラエルだから守られたのではありません。神の命令に従って羊を屠りその血をそれぞれの家の門柱とかもいに塗ったので、その血がしるしとなって、御使いが通り過ぎ、裁きが免れたのでした。

 

 預言者エゼキエルの見たのは、主がエルサレムを打たれることです。

 奴隷の家エジプトの地からイスラエルを連れ出すときには、羊の血のしるしをもって、イスラエルをエジプト人と区別されました。神の民イスラエルに横柄であったエジプト人を裁くことが神の目的だったからです。

 

 イスラエルは神の命令に従って、羊を屠りその血をイスラエルのしるしとして家々のかもいと門柱に塗りました。その血のしるしが、イスラエルを守り、裁かれるエジプト人と区別しました。イスラエルは、神に裁かれる対象ではなく、神に救い出されるものだからです。もしもイスラエルのうちに羊の血を塗らない家があったとすれば、その家は裁かれたことでしょう。

 イスラエルだから裁きを過ぎ越されたのではありません。羊の血によって、裁きは過ぎ越されたのです。救いは羊の血でした。

 

 神はイスラエルにメシアを遣わすことを約束しておられました。神から出る者、天から遣わされる主キリストです。

 しかし、律法に熱心な者たちの思いはふさがれて、神が遣わされた神の子羊イエスを悟ることができませんでした。彼らは、神が遣わされた主キリストを信じないどころか、民衆を惑わして主キリストとして来られたイエスを、十字架につけて殺しました。

 「神が遣わされるモーセのような預言者(主キリスト)を信じなければならない。彼に聞き従わなければならない。彼に従わない者は、聖なる神の民イスラエルから取り除かれなければならない。」と聖書に書かれているのに、聖書を教える立場の者たちがナザレのイエスにつまづいたのです。

 

 神がイスラエルの救いのために用意されたのは、神の子羊イエスです。十字架で流されたイエスの贖いの血です。十字架にかかられたイエスを仰ぎ、イエスを主キリストと信じる者は、キリストの贖いの血を受けて罪が赦され神に義とされる者です。

 

 十字架で血を流された子羊イエスは、復活のからだで死から甦られました。ナザレのイエスこそが、永遠に生きるキリストだからです。

 復活のキリストの福音を聞いたユダヤ人がイエス・キリストを信じました。それでもなお、聖書を教える立場の者たちは頑なにイエスを拒絶し、イエスを信じるユダヤ人を迫害しました。

 

 イエスを主キリストと信じる者とイエスを憎む者とに分かれました。神は、イエス・キリストの血のしるしをご覧になりました。イエスへの信仰を持つ者は天の御国に入るために殉教しました。

 神は、キリストの血のしるしを救いのしるしとされました。イエス・キリストを信じる者はキリストの血の中にかくまわれる者です。律法の完成者であるイエス・キリストを信じる者は、律法の呪いから解放されて、いのちを得る者とされます。

 

 神は、イスラエルを裁かれました。それで、イスラエルの国を取り上げて神の御子イエスを信じないユダヤ人たちを諸国に散らされました。イスラエルは神が遣わされた主キリストを信じない罪で、約束のものを失ったのでした。

 神の民イスラエルはイエス・キリストの御名によって裁かれたのです。彼らが、その御名を信じなかったからです。

 

 イエスの弟子たちは、イエス・キリストの命令に従い、聖霊を受けました。そして、使徒たちは、イエス・キリストを信じて水のバプテスマを受けた者たちに、イエス・キリストの御名による聖霊のバプテスマを受けるように命じたのです。

 

 イエス・キリストが昇天し父のみもとに帰られると、天からもうひとりの助け主、真理の御霊が遣わされました。

 

 終わりのとき、神は遣わされたキリストの御霊をしるしとされます。救いのしるしです。神の家の裁きのとき、救われる者につけられるしるしです。

 神は裁きの時には、しるしをもって彼らを裁きから守られます。裁かれる者たちの中から救い出されるために神がつけられるしるしです。

 

 自然災害は警告であって裁きではありません。民の目を覚ますためです。終わりの日に備えさせるためです。悔い改めによって神に立ち返り正しい救いの土台に築き上げられるためです。

 

 神の家の裁きは、約束の救いを受け取らなかった者を神の御意思で裁かれるのです。

 イスラエルは、神の御子イエス・キリストを信じない罪で裁かれました。

 キリスト教会は、聖霊(キリストの御霊)を信じない罪、キリストの御霊を冒瀆する罪、真理の御霊を消す罪で裁かれます。

 その後、この世が裁かれるのです。