ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神に信頼する

 

  目に見えない神に信頼する事は、なんて難しいことでしょうか。何度も何度も確認します。神の存在が自分にとって確かなものとなり、胸に落ちるまでは、なかなか自分のものにはなりません。

 

  一つの体験を通して、(わかった)と思ったはずなのに、新たな出来事が自分の前に立ちはだかると、あたふたしてしまいます。

 

  他の兄弟姉妹の証を聞いて、(なるほど)と理解したつもりなのに、自分自身の身に起きると、未知に遭遇したように、打ちのめされてしまいます。

 

  イエスとともにいた弟子達もそうでした。イエスがなさる事を目撃して、その都度、弟子達はイエスを信じた、と書かれています。

 

  あれっ、前にもイエスを信じた、って書いてあったのに、何故、また信じるの?もう、信じているのではなかったの?と驚きました。

 

  イエスが弟子達にあきれる場面は、何度も出てきます。

 

  「まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。目がありながら見えないのですか。耳がありながら、聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。」

  「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといて、あなたがたに我慢していなければならないのでしょう。」

 

  十字架につけられる前日、イエスは弟子達に、多くのことばを残されました。弟子達は言いました。「ああ、今あなたははっきりとお話しになって、何一つたとえ話はなさいません。今私達は、あなたが一切の事をご存じで、誰もあなたにお尋ねする必要が無い事がわかりました。これで、私達はあなたが神から来られた事を信じます。」

 

  すると、イエスはいわれました。「あなたがたは今、信じているのですか。」

 

  私達は、弟子達と同じです。何度も何度も体験して、実感し、それでもなお理解できない者です。イエスは、この世のものではないからです。この世の価値観で知れる方ではありません。神が与える信仰によらなければ、知ることの出来ない方です。

 

  信仰は、私達のものではありません。神は、イエスを天に上らせた後で、聖霊を地に下らせられました。この世のものではない聖霊が御霊となって、イエスを主キリストと告白する者のうちに来られたのです。

 

  聖霊を受けた弟子達は、この世のものでない御霊を与えられて、天の意識、天の価値観で生きる者に生まれ変わったのです。彼らから出る知識や知恵ではありません。彼らのうちにおられる御霊の知識や知恵を語る者とされたのです。

 

  彼らの中には、もう不信仰はありません。イエスが父を信頼して、全き信仰で歩まれたように、弟子達は、御霊の信仰で歩んだのです。彼らは、疑問に悩み続ける事はありません。答えは御霊が与えてくださいます。

 

  御霊に導かれ、御霊とともに歩むことが、彼らの生き様となりました。

 

  この世の価値観で生きる者にとっては、神を信じる事、知る事は、次元の違う事柄になります。親からも学校の教師からも社会においても、教えてくれるところはありません。

 

  教会に通っていても、わかったようでわからない。わかったふりをして、この世の人々とは違うんだという意識で自分を聖別します。しかし、喜びはありません。信仰は、人が教えてくれるものではありません。自分で考えても得られません。

 

  神に直接求めなければなりません。

 

  私はいつも自分で戦っていました。困難があると、主に祈りつつも全力で立ち向かい、解決すると神に感謝していました。困難がある度に、自分自身が強くなっていくのを感じました。

 

  ある伝道会で話された講師のたとえ話が印象に残っています。

 

  「ある人が、誤って崖から落ちてしまいました。運良く途中に一本生えていた木につかまる事が出来ました。彼は大声で叫びました。『助けてくれぇ、誰か助けてくれぇ。』しかし、誰もいません。

 

  すると、ひとりの声がしました。『あなたのその手を放しなさい。』『手を離したら、落ちて死んでしまうじゃないか!おまえは誰だ!』『わたしは神だ。あなたのその手を放しなさい。わたしがあなたを受け取るから。』

 

  彼は、叫びました。『誰かぁ、誰かぁ、神以外にほかに誰かいないのかぁ!』人は、目の前に起こる出来事にじたばたして、人の力を求めてしまいます。」

 

  神は自分のわざを止めて、ただ神を信頼することを望まれます。でも、自分のわざをやめる事には、相当の勇気がいります。

 

  人には、目に見えない神にすべてをゆだねて信頼するという機能が欠けています。にっちもさっちも行かなくなって、最後の手段として、神に心を向けるという事が多いと思います。

 

  神に祈りながらも、自分で判断し、対策を練っています。ある時、気づきました。うまくいった時に、神に感謝するのですが、実は神不在で、私が努力して、神様出来ました、と報告しているだけではないのか。神は離れた所から様子を見ていて、よくやったな、と言いつつ、自分に栄光を取るこの世の支配者と同じ方でしょうか。

 

  神は、権威を振りかざす方ではありません。ご自身の栄光を人のわざで得ようとされる方ではありません。神に信頼するとは、自分のわざを置いて、神にゆだねるという事、神が命じられたことに従う事。これが神に信頼するという事であり、神の栄光なのだ、と思いました。

 

  神に信頼する事は、何度も失敗を重ね、自分自身で体得していくものです。年数を重ねて、ある時自分の力の限界を知り、自分の力の無さを認めた時、自分にはもうどうする事もできない、と神に降参し、自分の働きが止まった時に、状況に働く神の御手の働きを体験します。

 

  それは突然現れ、まるで初めからそうなるように、仕組まれていたかのようです。神の中では、すべてが完成しているようです。

 

  神に信頼するのは、御霊の力です。御霊を心にお迎えして、心の王座に住んでいただきましょう。キリストは、聖霊のバプテスマを授ける方です。主に求める者に、必ず御霊を与えて下さいます。

 

  自分で責任を負わなくていいのです。御霊に聞き御霊に従うならば、神が責任をとってくださいます。神に信頼する歩みは、何よりも安全な道です。神に安らぎ、憩う、新しいいのちの歩みです。