ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

悔い改めによる回復 ヨブの場合

 

  潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていたヨブの信仰を嘲笑う悪魔は、ヨブの信仰が本物かどうかを試すことを神に申し出た。神は、ヨブの持ち物を打つことを許された。

 

  悪魔はヨブを打った。家畜が奪われ、ヨブに仕えている若者たちが殺され、天からの火で、羊と若者たちは焼き尽くされた。十人のヨブの子ども達も皆死んだ。

 

  ヨブは愚痴をこぼさず、「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と主を礼拝し、罪を犯さなかった。

 

  悪魔は神に言った。「人は自分の命の代わりには、すべての持ち物を与えるものです。彼の骨と肉を打ってください。彼はきっと、あなたを呪うに違いありません。」主は悪魔に仰せられた。「では、おまえの手に任せる。ただ彼の命には触れるな。」

 

  悪魔は、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で打ったので、灰の中に座り悔い改めた。妻が言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神を呪って死になさい。」

 

  ヨブは妻に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私達は幸いを神から受けるのだから、災いをも受けなければならないではないか。」ヨブは、罪を犯さなかった。

 

  ヨブの三人の友が、ヨブに悔やみを言って慰めようと互いに打ち合わせてやって来た。ヨブであることが見分けられないほどの姿を見て、彼らは声を上げて泣き、ヨブの痛みがあまりにもひどいのを見て、七日七夜一言も話しかけなかった。

 

  同情の目にさらされて、ヨブは口を開き、自分が生まれて来たことを呪った。友人達は慰めるが、ヨブの口から出る絶望的で悲観的な言葉に、厳しく反論した。友人のもっともらしい説教に耐えかねて、ヨブは自分の潔白を述べ始めた。

 

  「たとい私が正しくても、私自身の口が私を罪ある者とし、たとい私が潔白でも、神は私を曲がった者とされる。神は、潔白な者をも悪者をも共に絶ち滅ぼされる。」

 

  自分を潔白とするヨブに、友人達は、ヨブを罪人であると決めつけ、神のことばのように語った。「ヨブはいたずらに口を大きく開き、知識もなく、自分の言い分を述べたてる。神の回りには恐るべき尊厳がある。私達が見つけることの出来ない全能者は、力と裁きにすぐれた方。義に富み、苦しめることはしない。だから、人々は神を恐れなければならない。神は心のこざかしい者を決して顧みられない。」

 

  すると、主がヨブに答えてことばを発せられた。それを聞いたヨブは答えて言った。「あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。私はあなたの噂を耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。」ヨブは、神に悔い改めた。

 

  知識も無くて、摂理を覆い隠し、神について真実を語らなかった友人達に怒りを燃やされた神は、彼らに全焼の生贄を献げさせ、ヨブに祈らせた。

 

  主はヨブを受け入れるゆえに、ヨブの祈りを受け入れ、ヨブが友人達のために祈ったとき、主はヨブを元通りにされた。さらに主は、ヨブの所有物をすべて二倍にされ、新しく十人の子ども達を与えられた。主はヨブの前の半生より後の半生をもっと祝福された。

 

 

  イエスは、マルタとその姉妹マリアと兄弟ラザロを愛しておられた。ラザロが病気になって死んだ。マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」

 

  イエスはいわれた。「わたしは、甦りです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

 

  マリアもイエスの足元にひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」

 

  イエスは、彼女が泣き、彼女と一緒にいたユダヤ人も泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、いわれた。「彼をどこに置きましたか。」イエスは涙を流された。

 

  イエスは、神の力を信じない不信仰がユダヤ人に蔓延しているのを見て、悪魔に憤りを覚えられました。人は御子とともに死の無い世界で生きていたではありませんか。彼らは死を恐れる者ではありませんでした。創造の輝きを取り去った罪の呪いに涙を流されました。

 

  神が御自分のために造られた民までもが、死の縄目に捕らえられ、神を知らずに滅んでいく人間と変わりがありません。彼らは、羊飼いの無い羊のように、さまよえる魂です。彼らに神の真理が教えられていません。

 

  マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」

 

  イエスは彼女にいわれた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」

 

  すると、死んでいたラザロが葬られたときの姿で出て来た。ラザロは、生き返ったのです。

 

  今の時代は、不信仰の時代です。聖書を読んでいても、それはイエスだったからできたのでしょうと、信仰が働きません。この世に翻弄されます。

 

  神は嘆いておられます。神が日常の生活が立ち行かなくなることを許された理由があると思います。今まで当たり前に出来ていたことがやれなくなった。今まで所有していたものが無くなった。大切なものの基準が余儀なく変えられた。

 

  神はこの時に、立ち止まることを恐れないで、本当に大切なものに気づき、なくてはならないものを知り、真に価値あるものを得て欲しいと願っておられるようです。信仰のある人はこの時に信仰の土台を築き直し、また、信仰のない人には、あなたの守りはわたしのうちにある、と永遠の平安の中に招き入れようとしておられるようです。

 

  破壊者である悪魔が働くことを許されるのは、神の目的があるのです。悪魔は滅ぼすために、しかし、神は救うために働かれます。

 

  神は悔いてへりくだった魂に御目を留められます。それは、聖書を知らない民にも、他の神々に仕えている人々にも臨まれます。神には彼らに永遠のいのちを与える用意があります。

 

  神を知らないで生きていたことを悔い改め、神に立ち返った者に、誰にも奪われることのない平安と喜びと安らぎを与えられるのです。神との平和が回復するからです。