「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネの福音書14:27)
イエスは、死に勝利し、永遠のからだで天に上られました。父なる神の右の座に着座し、今も生きておられます。天に帰られるキリストが、地上に残る弟子たちに与えると言われた平安。世が与えるのとは違うイエスの平安を与えると言われたのです。
イエスとともにおられた聖霊。聖霊とともにおられる御父。イエスは、御父と聖霊の愛に包まれて歩まれました。イエスは、ご自分とともにおられた聖霊を弟子たちに与えることを約束されました。
バプテスマのヨハネが証言したように、イエスは聖霊のバプテスマを授けるキリストでした。父なる神が聖霊を遣わされると、聖霊が御霊となって、イエスを主と信じる者のうちに住まわれます。
イエス・キリストは、永遠に生きておられる神の霊である御霊を、天から地上に遣わされるように、父なる神にお願いされたのです。
神の子羊イエスが十字架で贖いの血を流し、悪魔と死に勝利して墓から甦り、遣わされた方の命じられた通りにキリストの役割を完了されると、父が天に戻されました。御子が、神の子羊の任務を成し遂げられると、次に、聖霊が世に遣わされました。
キリストが天の道を開き、聖霊がいのちの道を整えられます。父と御子イエスと聖霊との完全な信頼によって、悪魔を滅ぼし、人を救うという目的のために神のわざがなされています。
死んだイエスが十字架から下ろされ埋葬されると、弟子たちは、イエスとともにいた自分たちが次のターゲットにされると思い、ユダヤ人を恐れて戸を閉めていました。
墓から甦ったイエスが、戸が閉まった中にいる弟子たちのところに来られ、彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように。」と言われました。こう言ってイエスは、その手と脇腹を彼らに示されました。弟子たちは、主を見て喜びました。
イエスが墓の中に入ってから三日目の夕方のことです。すでに、女たちが早朝イエスの墓に香油を塗りに行って、御使いから、イエスが甦られたことを告げられていました。それを聞いても、にわかに信じ難い弟子たちでした。
イエスが十字架につけられるのを見、十字架で息を引き取られるのを見、墓に納められたのを目撃している弟子たちです。それまで、着き従っていた主イエスが頼みでした。イエスのことばを喜んで聞き、メシアのもとにいる安心感を味わっていたのです。しかし、主は死んで墓に入ったのです。多くの言葉を残されましたが、主がいなくなった今、彼らは平安を失っていました。
皆、恐れていました。ユダヤ人たちを怖れ、羊飼いを失った羊の群れのように、進む方向を見失っていました。生きた心地がしません。希望の火の消えた弱い者となっていました。
戸は固く締めています。主を失った弟子たちは、これからどうしようか考えることもできません。先のことは何も考えられません。主が甦られたことも半信半疑です。主の姿を見ない限り、納得できません。復活の話を主から聞いてはいましたが、夢のような事です。
そこに、堅く閉じた戸から入って来るのではなく、復活のからだの主が弟子たちの中に立って、言葉を語られるではないですか。
はっきりと主の姿が見えます。夢幻ではありません。そして、「平安があなたがたにあるように。」と語られたのです。こう言って復活のイエスは、十字架につけられた手の傷痕と兵士に槍で突き刺された脇腹の傷跡を彼らに示されました。確かに十字架で死んだ主イエスであることを知った彼らは喜びに満ちました。
イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」
死んで失っていた主が、新しいからだで弟子たちの前に現れました。壁を通り抜け、後に五百人ほどの弟子たちに現れた偏在のからだの主です。幽霊ではありません。肉体の頃のように弟子たちとともに食事をし、会話をし、すぐそばに立って、息を吹きかける神の御子です。
何ということでしょう。イエスが復活の話をされてもチンプンカンプンだった弟子たちにも、はっきりとわかりました。主は、甦られたのです。
かつて、湖に大暴風が起こって、舟が大波をかぶったことがありました。弟子たちはうろたえました。ところが、イエスは大波の中で眠っておられたのです。弟子たちはイエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちは溺れそうです。」
その時、イエスはこう言われました。「何故恐がるのか。信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖を𠮟りつけられると、すぐさま大なぎになったのです。
人々は驚いて言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
イエスは、御父の中で安息しておられました。心は平安でした。イエスは天上の生き方を地上でされていたのです。御父のうちにいる者は、御父の平安の中にいるのです。この地上の何ものもその平安を奪うものは無いのです。
イエスは、弟子たちにこのイエスの平安を与えられました。世にあっても、神に信頼する平安です。目の前に起こる現象にうろたえる弟子たちに、「信仰の薄い者たちだ。」と言われました。弟子たちは、この地上のものを見て、怖がっていたのです。イエスの持っておられる信仰を得ていなかったのです。
復活のからだのイエスを見て、弟子たちは信仰を取り戻しました。そして、イエスの言葉を思い起こしたのです。ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目に甦らなければならないことの意味がはっきりとわかりました。主を失った事は永遠の希望を得るためだったのです。
「わたしは、甦りです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」このイエスの言葉は真実でした。そして、信じる者もまた、主イエスのごとく死んでも甦り、永遠に生きるという希望を確信しました。イエスは、この世のものではないのです。天から来られたメシアなのです。弟子たちの信仰は揺るぎないものとなりました。
「聖霊を受けなさい。」と命じられた主の言葉に従って、弟子たちは聖霊のバプテスマを受けました。聖霊を受けた弟子たちは、イエスの平安を持つ者となりました。信仰と希望と愛によって主に信頼する者となり、天上の歩みをされたイエスに倣って、御霊とともに歩み、死に至るまで忠実に従い通しました。
御霊を受けた弟子たちの内に、イエスの平安があったからです。