ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

自分が主人となった祈り

 

  神学生の時、笑われたものです。「あなたの祈りは、イエス様をしもべのように命じている主人のような祈りね。」

 

  確かに癇癪持ちの私は、自分の思い通りにならないと泣きわめく幼児性が残っていました。買ってくれないと、そこに寝転がって「買って、買ってぇ!」とやる子です。欲しい物を手にした時の達成感、あの強い意志と執拗なお願い。

 

  クリスチャンになってから、大人の私の中に潜んでいた幼児に出くわす事が多々ありました。私の中で、地団駄を踏んでいました。取り澄ました顔の私の中では、幼児の私がいやいやをしていたのです。

 

  私の祈りは、「イエス様これをして下さい。あれをして下さい。このことがこうなっていますから、ああして下さい。」確かに、一方的にお願いするだけで、イエス様に聞く姿勢は全くありませんでした。私の中に答えがあって、神にそれに従って働いてくれるように願っているだけでした。

 

  他人に言われたからと言って、変わるものではありません。

 

  ある時、あるメッセージを聞いた人が、会衆皆が笑ったという、その中のたとえ話を話してくれました。

 

  「ひとりのクリスチャンが、自分は癇癪持ちで忍耐がないことに気づき、神に忍耐力をもらおうと思いつきました。『イエス様、私には、忍耐がありません。忍耐力を下さい。忍耐を下さい。神様、今すぐ忍耐を下さい。』」

 

  祈っても、何も変わらない。それでも、願い続け、祈り続ける中で、忍耐力が養われていくのに、今すぐ下さい、とは笑ってしまいます。忍耐を求めながら、短気な祈りをしているのです。皆、同じ経験があり、身に覚えがあるので、笑ってしまいます。

 

  私も同じことをしているんだ、とわかりました。自分が中心の祈りです。神に明け渡すことのない、身勝手な祈りを神に投げつけていました。

 

  祈りは呼吸のようなものと教えられていました。意識しなくても呼吸しているように、また、呼吸しないと生きていられないように、クリスチャンは祈りをしないと神と繋がる霊の部分が弱くなり、キリストから頂いた新しいいのち、御霊が消えていまうというのです。

 

  キリストを信じない人々もそれぞれの神に祈ります。誰もが願い事を神に託します。私は、この祈り方でイエス様に祈っていたのでした。

 

  他宗教では、その祈り方でもよいのでしょうが、聖書の神は、人とのコミュニケーションを望まれる、霊の神です。

 

  目に見える像の前で祈るのとは違います。神は偶像について、いわれます。

 

  「偶像は、木や銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があっても触れず、足があっても歩けない。喉があっても声をたてることも出来ない。ものも言えず、歩けないので、いちいち運んでやらなければならない。」

 

  イエス・キリストの神は、霊なる神なので、どこであっても、その場で祈る事が出来ます。祈れば応えて下さる生きた神なのです。

 

  神は、キリストを信じる者に、御霊を与えて下さいます。祈る事によって、神がその人のうちに御霊の領域を増やしていかれます。

 

  初めは独りよがりな祈りでも、次第に成長していきます。赤子が話す不明瞭な言葉に喜んで耳を傾ける親のように、神は喜んでつたない祈りに耳を傾けられます。

 

  御霊が祈り方を教えていかれます。祈りに答えられる体験によってその人の信仰を建て上げて、どう祈ったら神に受け入れられるのかを教えていかれます。

 

  祈りは、イエス様とのコミュニケーションです。一方通行のものではなくて、イエス様との交わりです。お願い事に限らず、何でもお話できるのです。かしこまらなくていいのです。

 

  「今日はいい天気ですね。感謝します」でも、朝起きて、「イエス様、おはよう」でもいいのです。イエス様にお話してみてください。コミュニケーションが生まれると、イエスのことがもっと分かり、もっと愛情が湧いてくるでしょう。

 

  まず、親しい友達のようになっていきます。何でも打ち明けられる方がいつもそばにおられる感じです。失敗でも弱音でも不満でも悪口でも何でも、安心して話せる方です。

 

  イエスとの会話で安らぎを得るようになった頃には、自分の我がおとなしくなっている自分に出会います。

 

  イエス様の話を聞くことを喜んでいる自分がいます。話を聞いてもらいたかった自分ではなく、話を聞きたい自分に成長したようです。

 

  イエスを愛する愛が増すごとに、イエス様に喜ばれたいという思いから、イエス様を喜ばせたいと、イエスが主体の考え方が芽生えてきます。これが、目に見えないけれども、確かにうちに住んでおられる御霊の働きなのです。

 

  自分が主人だった祈りは、次第にしもべの祈りに変えられていくのです。