ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

家族のために祈ろう

 

  キリストを信じて間もない頃の事です。家族の反対に苦しんでいました。

 

  キリストを信じてからの苦しみの方が、信じる前のものよりもつらいものでした。家族は私に立ち向かって攻撃し、家庭は安らぎの場所ではなく、耐え忍ぶ場所に変わりました。

 

  家族のために祈る事が出来ないくらい、家族の攻撃はつらく、家族の救いは半ばあきらめかけていました。もうどうにでもなれ、とやけを起こした心は、家族から離れる事を望んでいました。

 

  そんな頃、日本に来られた韓国のハレルヤおばさんこと崔子実先生に祈っていただくと、崔先生は私の頭に手を置くなり、「ハレルヤ!感謝しまぁす。姉妹の家族は救われまぁす。」と大きな声で祈られました。

 

  本人の私が投げ捨てた祈りを、神は崔先生を通して、拾って下さいました。あの家族がキリストを信じるなんて、とても信じられません。私の中には望みは無いけれど、神は望みを持っておられるようです。家族の救いを他人事のように思っている私の手を握り、「大丈夫!」と神がいわれたように感じました。

 

  アメリカ・ヴィンヤード・ツアーに参加し、アメリカ人のスモールグループに参加した時の事です。ミニストリーの中で、「日本人の中で、家族の迫害に会っている人がいます。その人のために祈ります。その人は手を挙げてください」と言われ、私は手を挙げました。

 

  数人のアメリカ人が私を取り巻き、祈り預言をしてくださいました。「あなたには天使の心が与えられています。あなたの賛美は天使の賛美のようです。神がともにおられます。あなたの家族の迫害は迫害に終わりません。あなたの家族は、救われるだけではなくて、あなたの信仰を助ける者となります。」

 

  かつての崔先生の祈りを思い出しました。一向に良くならない家族にしびれを切らして、家族の祈りを忘れかけていた私に、再び神は家族の救いに思いを向けさせて下さいました。

 

  神の方から二度も、家族の救いを語られたのだから、現状に落胆せずに、信仰によって受け止めた方が良いと思いました。

 

  しばらくして、母に会った時、また言い争う事になったので、「お母ちゃん。私はね、天使の心が与えられているんやって!」とむきになって言い返しました。

 

  すると、母はすかさず言いました。「そうか。ほんなら、あんたの中には、天使の心と悪魔の心があるんやね!」

 

  私は、(その通りや。お母ちゃんは、ようわかっとる)と舌を巻きました。

 

  クリスチャンホームで生まれ育った先輩のお母さんの言葉と重なりました。先輩が教会の礼拝に行く時に、「聖書は重いから持って行きたくない」みたいな愚痴を言った時、お母さんがすかさず言った言葉です。「あんたの罪は聖書よりもよっぽど重い。」

 

  先輩は、ぐうの音も出なかった、と言いました。それを聞いた時、(あっぱれ!お母さん)と脱帽しました。

 

  

  新約聖書にイエスがされた、貧乏人のラザロのお話があります。

 

  毎日贅沢に遊び暮らしている金持ちの門前に寝ていた全身おできの貧乏人でした。金持ちの食卓から落ちる者で腹を満たしたいと思っていた貧乏人は死んで、御使い達によってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

 

  金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、遥かかなたに見えた。アブラハムのふところにラザロが見えた。

 

  金持ちは叫んで言った。「父アブラハム様。私を憐れんで下さい。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこして下さい。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」

 

  アブラハムは言った。「子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここでラザロは慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私達とおまえ達の間には、大きな淵があり、渡る事も、越えて来る事も出来ないのです。」

 

  金持ちは言った。「父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送って下さい。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来る事の無いように、よく言い聞かせて下さい。」

 

  しかしアブラハムは言った。「彼らには、モーセと預言者があります。その言う事を聞くべきです。」

 

  金持ちは言った。「いいえ、父アブラハム。もし、誰かが死んだ者の中から彼らの所に行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。」

 

  アブラハムは金持ちに言った。「もしモーセと預言者の教えに耳を傾けないのなら、たとい誰かが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れない。」

 

  この聖書の箇所を読んで、不思議に思いました。金持ちは貧しい者を顧みず自分の思うままに生きていた人です。自分の苦しみから解放される事や自分の救いを嘆願し続ける事ではなく、自分の肉親が苦しむ事がないように、家族の救いを求めた事です。

 

  自分が炎の中で苦しんでいる時でも、家族を思いやる心が残っている事に驚きました。火で焼かれるほどに神から離れている人の心に、家族を思う心が残っている事に驚きました。

 

  家族は、生まれた時から自分の生きる世界だったのです。自分の存在の源であり、一番近しい人々です。

 

  「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」とパウロは言いました。

 

  家族の救いは、その人に平安と喜びを与えます。イエスが話された金持ちも、炎の苦しみの中で、家族の救いを願ったのです。家族が滅び苦しむ事は、心傷む事です。あの時、嫌がられても伝えておけば良かった、と悔やんでも悔やみきれないでしょう。

 

  家族の救いは、本人が考える以上に、自分の魂が願っている事であり、神も望んでいる事ではないのかと思います。

 

  ノアが洪水から救われた時、家族と一緒でした。神がソドムの町を滅ぼす時に救い出されたのは、ロトとロトと共に暮らす家族でした。

 

  神は家族の救いのために祈る事を望まれ、御霊はともに執り成して下さるのだと思います。