ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

天の住まいを思う

 

 「彼(神の子羊イエス)を砕いて、痛める(十字架につける)ことは主(創造主であられる全知全能の神)の御心であった。

 もし彼(神の御子イエス・キリスト)が、自分のいのちを(イスラエル〈神の民〉の)罪過のための生贄(罪の贖いの子羊)とするなら、彼(神の子羊イエス・キリスト)は末長く、子孫(御霊によって生まれる〈新生する〉神の子どもたち)を見ることができ、主の御心(神の御計画)は彼(神の御子キリスト)によって成し遂げられる。

 彼(神の子羊イエス)は、自分のいのちの激しい苦しみのあと(十字架の傷跡)を見て、満足する。

 わたし(天の神)の正しい(神に忠実に聞き従う)しもべは、その知識(神の子羊イエスの贖いの血による罪の赦しと御霊による新生と永遠のいのち、そして、真理の御霊によって天の御国を相続する神の子どもたちを、新しく創造するという神の御計画を知ること)によって多くの人を義(神を信じる者)とし、彼らの咎を彼(神の子羊イエス)がになう。

 それゆえ、わたし(天の神)は、多くの人々に彼(キリストの御霊)を分け与え、彼(悪魔に勝利した神のひとり子キリスト・イエス)は強者(信仰の勝利者)たちを分捕り物としてわかちとる。(キリストは、御霊によって新しく創造された新しい〈新生した〉人々〈御霊の教会〉を受け、とこしえのイスラエルを治める主権者となる。)

 彼(イエス・キリスト)が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たち(神に反逆し、不信仰なユダヤ人たち)とともに(死者に)数えられたからである。

 彼(イエス・キリスト)は多くの人(ユダヤ民族の垣根〈囲い〉を越えて異邦人にまで及び、全世界の人々)の罪を負い、そむいた人たちのために執り成しをする。(神の子羊イエス・キリストは、世の罪を取り除くために贖いの血を流した。そして、神から遠く離れた罪人たちが神の御救いの御計画を信じて罪を悔い改め、神に立ち返るように、神の御座の右に着座して、世の終わりに至るまで執り成しをする。)」(イザヤ53:10-12)

 

 信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。信仰(神が遣わされた救い主イエス・キリストを信じる信仰)によって、罪人は義とされます。信仰がなくては、神に喜ばれることはありません。

 

 「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。そして、約束されたカナンの地で他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活(奴隷の家エジプトから出て、先祖に約束された約束のカナンの地を目指して荒野を行く四十年間、イスラエルが荒野で暮らした仮庵のようです。)をしました。

 彼(アブラハム)は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」(へブル11:8-10)

 

 アブラハムは、神が与えると約束されたカナンの地に入っても、寄留者として他国人のようにして住み、天幕生活をしました。神の約束(神は、アブラハムとアブラハムの子孫〈イスラエル〉にカナンの地を与えると仰せられた。)を盾にして、カナンの地の所有権を主張する者ではありませんでした。

 アブラハムは、神の約束を人間の力で実現する者ではありませんでした。アブラハムは、信仰によって義とされた、信仰の父です。神の時に、神御自身の御力で約束を成就されることを待ち望んでいたのです。

 アブラハムは、まことの生ける神(天の神)のことばの実現によって現われる、堅い基礎の上に建てられる都を待ち望んでいたからです。その都は、神御自身が設計し建設される物です。

 

 かつて、アブラハムの先祖のノアは、神の御告げどおりの設計で箱舟を造りました。神の設計された箱舟は、大洪水の勢いにも破損せず、転覆もしない完全な物でした。神の仰せられる完全なものを、アブラハムは待ち望んでいたのです。

 

 アブラハムも、イサクも、ヤコブも、モーセも、イスラエルも、ダビデも、エリヤも預言者たちも、また、その実現を見ることなく、地を去り、先祖に加えられました。

 カナンの地にイスラエル王国が建てられ、エルサレムに神の神殿が建てられても、それは、破壊されて、堅い基礎の上に建てられたとこしえの都ではありませんでした。

 

 神から遣わされた救世主イエス・キリストも、ローマ帝国に支配されるユダヤ属州で生まれ、イスラエル王国が再興されないまま、地から去られました。

 神の御子イエス・キリストから、父について、永遠のいのちについて、御国について、真理を知らされた使徒たち、また、死から復活されたイエスを見、キリスト・イエスが天に上られるのを見、キリストの御霊を受けた弟子たちも、御国の信仰を受け取りましたが、その実現を見ることなく、地から去りました。

 

 「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のもの(黙示録21章で実現する神の都)を手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれ(信仰によって神の御国)を見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

 彼らはこのように言うことによって、自分の(魂の)故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。(彼らは、自分の生まれた故郷を思っていたのではありません。)

 しかし、事実、彼ら(信仰者)は、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷(とこしえの家)に憧れていたのです。それゆえ、神は(神のことばを信じて待ち望む)彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(黙示録の預言が実現する時が必ず来ます。)」(へブル11:13-16)

 

 彼らは、信仰によって、神の約束を信じ、神の約束の成就の時を待ち望みました。自分たちの生きている時代に、神の御国が実現しないからと言って、神の約束を疑ったり、神のことばを軽んじたりしません。すべての世代の者は、すべての世代が一つとなる一つの故郷を思い描き、信仰によって、その成就の時を夢見て、神を崇めたのです。

 

 「(御救いと神の御国の)信仰の創始者であり、完成者である(キリストの御霊によって神の子どもたち〈信仰の勝利者である七つの御霊の教会〉と神の御国を完成される)イエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜び(十字架の苦しみの後の栄光)のゆえに、(十字架の御救いのわざの完成の後に父なる神から受ける、主権と光栄と国を御覧になっていたので、)はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(へブル12:2)

 

 罪の贖いのみわざを成し遂げられた救い主イエスを仰ぎ、神と人との仲介者であられるとこしえの祭司イエス・キリストの御名によって、大胆に恵みの御座に近づくことができることを感謝し、また、イエスが主権を持って治められる神の御国がこの地上に実現されることに思いを向けて、希望を持ちましょう。

 

 「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る。」(ヨハネ11:40)

 これは、死から甦り、天に上り、再び、神の民の救いのために地に戻って来られて、神の御国(御霊の教会)を治められる、とこしえのイスラエルの王イエス・キリストの約束です。

 

 この世は、贖われた私たちの本当の住まいではありません。私たちは、旅人であり、寄留者です。天幕生活をする者です。

 神は、天の御国に私たちのとこしえの住まいを用意しておられます。

 

 イエスの弟子たちは、天の住まいを思って、苦難に耐えました。激しい戦いも、また、そしりと苦しみをも耐えました。

 いつまでも残る財産(天の御国で生きる永遠のいのちと、天の住まい)を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。この世のものを失っても、永遠に残るもの、永遠のいのちと新しい霊のからだを神から受けるのです。死んでも甦り、永遠に生きることを知っているのです。

 

 私たちは、信仰によって神からいただいた確信(神の子どもとされることと、永遠のいのちと天の住まいを受けること)を投げ捨てません。私たちの信仰に報いを与えてくださる方(神)は生きておられます。

 

 「あなたがたが神の御心を行なって(神を目の前に置き、イエスを愛し、信仰を持ち続けて)、約束のもの(永遠のいのちと天の住まい)を手に入れるために必要なのは忍耐です。」(へブル10:36)

 

 「私たちは、(反キリストや偽預言者との戦いや背信者の迫害に)恐れ退いて(信仰を捨てて)滅びる者ではなく、(天の住まいを)信じて(信じ続けて永遠の)いのちを保つ者です。」(へブル10:39)