神の霊がキリストを信じていない、未信者の家族にも働かれます。
私が水のバプテスマを受けてしばらくした頃の事です。父の兄嫁と父の妹の間でトラブルがありました。
私の父は長男ではありませんが、父の実家は空き家になっており、私の家が兄弟姉妹の家の住所のちょうど真ん中辺りにある事から、皆が私の家に集まって話し合いをする事になりました。
親戚におじさん、おばさんが、難しい顔をして部屋に入りました。姉夫婦も両親も入っていました。私は入りませんでした。
その部屋から言い争う声が聞こえて来ました。激しく声を張り上げています。クリスチャンになったばかりの純真な信仰の私は、心を痛めました。同じ血肉の親族同士がなんて醜い争いをしているんだろう。本当につらい思いになりました。
私はうずくまって、主に打ち明けました。「イエス様、今親戚が集まっています。もめ事があって、言い争っています。」
そして、祈りました。「イエス様。皆は、本当の神を知らず、真理を知らない人達です。どうかイエス様。来て下さい。こんな争いをしなくても良いように助けて下さい。」
心を痛めながら、締め切った部屋の中の事を思って、祈りながら泣いていました。私には、部屋の中は見る事が出来ず、状況は分かりません。
しかし、祈っている私の脳裏に部屋の中が映し出されました。皆が輪になって座っていました。すると、白い衣を着た髪の長いイエス様がその中央に座られたのです。
(あっ、イエス様が来て下さった)と思い、安心しました。何をして下さるかまでは考えもせず、要求する思いもなく、ただ、イエス様が来られたのなら、もう大丈夫!という安心感だけが私の心を満たしました。
イエス様の姿を見て、祈りを止めました。それまでの胸が締め付けられるような緊張感は取り除かれ、イエス様が来て下さったという喜びで胸はいっぱいになりました。
キリストを信じていない人達の真ん中に座られたのです。その座られる様子は、子どもの他愛もないケンカに、しょうがない子達だねぇ、と温かい目で見てなだめる優しい教師のようでした。
イエス様が、イエスに敵対している家族や親族の所にまで来て下さいました。イエス様の姿を見て安心し、私の中に心配も悲しみも無くなった時に、閉められた部屋の中で、どっと湧きあがる声が起こりました。
イエスが真ん中に座られて、すぐの事でした。一瞬、戸惑いました。
するとすぐに、閉められていたふすまが開き、中にいた人達が次々と出て来ました。しかも、皆がすごい笑顔で、宙を見て笑いながら出て来るのです。そして、親族は帰って行きました。
出て来た義兄に聞きました。「何があったの?」
「わからん」と言いながら、幸せそうに笑っていました。
緊張した難しい顔をして入って来た親族は、わはは、と笑い声を立てながら、楽しそうに夢見心地の様子で帰って行きました。
彼らは皆、神の国の平安を味わっているかのようでした。部屋から出て来た皆の目は、一様に宙を見て同じような笑顔をしていました。
問題が解決したわけでは無いけれども、問題が気にならなくなったほどに彼らの心は問題から解放され、喜びに満たされていました。
イエス様が何か働かれたようですが、不思議な光景でした。家族に、イエス様が部屋に来られた事を話す事は出来ませんでした。
今になって感じる事は、サムエル記第一10:10の記事で起こった事と似ている、という事です。
サウルが預言者の一団に出会うと、神の霊が彼の上に激しく下り、それでサウルも彼らの間で預言を始めた、とあります。
神の霊が一方的に、部屋の中にいた人達の上に臨んだのだと、思います。
神は、イエスを信じていない人達にも神の霊を臨ませて下さるのです。イエスを知らない人達の心にも、働きかけられる神なのです。
イエスを信じていない人にはイエスの御業は起こらないと思っていましたが、天地万物を造られた神、人を造られた神は、すべての被造物に働かれるのです。
すべてのものは、このひとりの創造主によって造られています。創造主は御自分の造られたものを御自分の思うように変える事も出来ます。
イエスを信じる者は、主に祈ります。その祈りによって、主の霊が働かれるのです。
神は、イエスを信じる者達が、イエスの御名によって祈る事を望んでおられます。そして、彼らが神の霊のわざを見、神の御国の味わいを体験する事は、神御自身の喜びでもあるのです。
イエスには遠慮しないで祈りましょう。大胆に、図々しいくらいに夜中でもいつでも神を呼び求め、小さな事も大きな事も神にすがって祈りましょう。
目に見えるすべてのものは、神の許しがなければ、存在出来ないものです。すべては、神の御手の中にある事です。神に出来ない事はありません。神に不可能は無いのです。
神を信じない人にも働かれるイエスの御名の力を、祈りによって体験していきましょう。