ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

いのちは平等

 

  ある金持ちがいた。いつもきらびやかで豪華な衣装をまとい、毎日贅沢に遊び暮らしていた。

 

  ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできを舐めていた。

 

  さて、この貧乏人は死んで、御使い達によってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

 

  その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、遥かかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。

 

  彼は叫んで言った。「父アブラハム様。私を憐れんでください。ラザロが指先を水で浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」

 

  アブラハムは言った。「子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみ悶えている。

 

  そればかりでなく、私達とおまえ達の間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることも出来ないのです。」

 

  ユダヤ人の神の戒めでは、貧しい者や虐げられている人を憐れむことが命じられています。

 

  「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。またあなたの葡萄の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」

 

  「あなたの隣人を虐げてはならない。かすめてはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。」

 

  人にはそれぞれ置かれた環境があります。どんなに願っても奮闘しても浮き上がれない状況があります。

 

  人は運が良いとか悪いとか言いますが、これも目に見えない力のめぐり合わせによると言っても良いでしょう。豊かな者は貧しい者に生きる道を残してやるように、神は望んでおられます。

 

  豊かさは神の恵みです。この恵みの神は、すべての人を養っておられます。神に多く与えられた人は、それを貧しい者に施す恵みも与えられました。お金や物質的豊かさによって、人からの信頼と魂の精神的豊かさも得るためです。

 

  主イエスご自身が、「受けるよりも与える方が幸いです」と言っておられます。労苦して弱い者を助けることを願っておられます。

 

  「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押し付け、揺すり入れ、溢れるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

 

  金持ちは、神の御恵みを十二分に受け取っていました。しかし、その恵みを貧しい者に与えることなく、御恵みの流れを滞らせました。恵みは淀み、金持ちの魂を腐らせてしまいました。

 

  彼の魂は死んでしまいました。この世で、良い物を受けていたのに、魂を生かすために働くことをしなかったからです。豊かな金持ちは、飢え渇くことがありませんでした。

 

  一方、貧乏人のラザロは収入を得るあてもなく、いつもお腹を空かし、飢えていました。彼は生きるために、飢え渇いていました。

 

  豊かさの中で、義の飢え渇きの無い金持ちは、霊的に貧しい者となりました。貧しさの中で、いつも飢え渇いていた貧乏人のラザロは、アブラハムのふところで満ち足りる者となったのです。

 

  同じアブラハムの子、アブラハムの子孫であるのに、金持ちは、父アブラハムから遠くに離れ、炎の中で苦しんでいます。一方、貧乏人のラザロは、父アブラハムのふところに抱かれ、慰めを受けています。

 

  父アブラハムが自分の子だからと言って、すべての子らを自分のふところに抱くわけではありません。

 

  アブラハムをお呼びになる神が、ひとりひとりの魂の値打ちをはかり、その人の永遠に住む場所を決められるのです。

 

  人は、一人一人与えられた肉体の中で人生を生きます。この世の命を生きるのです。顔かたちの良い者もいれば、そうでない者もいます。お金持ちもいれば、貧乏人もいます。地位のある者もいれば、そうでない者もいます。千差万別です。

 

  しかし、いのちは一つ、いのちは繋がっているのです。多く受ける者もあれば、少なく受ける者もあります。しかし、皆が生きるように全体に目を配っておられる、天の神が様子を見ておられます。

 

  神は、貧乏人のラザロを知っておられました。ラザロという名前も覚えておられます。しかし、金持ちには名前を呼ぶことはありません。「金持ち」とひとくくりに、くくられるのです。

 

  自分で得たお金は、自分の思うように使っても良さそうなのに、そのお金も神の恵みであったということでしょうか。神に感謝し、神にお返しするという、神と結びついた心が大切です。

 

  渇いたものに水を飲ませることも、飢える者にパンを与えることも、いのちの神である主にしたことなのです。

 

  この世で豊かな者が、死後も豊かであるとは限りません。この世で貧乏な者が、死後も貧しく虐げられるとは限りません。この世で地位のある者が、死後も高い地位であるとは限りません。この世で地位の低い者が、死後も低く蔑まれるとは限りません。

 

  貧乏人のラザロも金持ちも、死にました。どんな人も必ず死ぬのです。いのちに不平等はありません。いのちは平等なのです。

 

  神が認められる義なる者は、永遠のいのちを受け、不義な者は、永遠に焼かれるのです。忖度はありません。神の御前では、命は平等に量られます。量りが変えられることはありません。すべての人は、同じ一つのはかりではかられるのです。