ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

苦しみは祝福

 

 「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。」(詩篇119:67)

 

 ダビデの生涯は敵に囲まれ、苦しみの連続でした。神がイスラエルの王として選び、油注がれたダビデ王です。ユダ族から出た王です。

 ダビデの心はいつも、主を慕い求めていました。苦しみの中で、砕かれて砕かれて、より一層、主を求める者とされました。

 

 「私(ダビデ)の魂は、あなた(主)の救いを慕って絶え入るばかりです。私はあなたのみことばを待ち望んでいます。

 私の目は、みことばを慕って絶え入るばかりです。『いつあなたは私を慰めてくださるのですか。』と言っています。」(詩篇119:81,82)

 

 「あなたの仰せはことごとく真実です。彼らは偽り事をもって私を迫害します。どうか私を助けてください。

 彼らはこの地上で私を滅ぼしてしまいそうです。しかしこの私は、あなたの戒めを捨てませんでした。

 あなたの恵みによって、私を生かしてください。私はあなたの御口のさとしを守ります。」(詩篇119:86-88)

 

 「私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。私はあなたのもの。どうか私をお救いください。私は、あなたの戒めを、求めています。

 悪者どもは、私を滅ぼそうと、私を待ち伏せています。しかし私はあなたのさとしを聞き取ります。」(詩篇119:93-95)

 

 「あなたは慈しみ深くあられ、慈しみを施されます。どうか、あなたの掟を私に教えてください。

 高ぶる者どもは、私を偽りで塗り固めましたが、私は心を尽くして、あなたの戒めを守ります。

 彼らの心は脂肪のように鈍感です。しかし、私は、あなたの御教えを喜んでいます。」(詩篇119:68ー70)

 

 神は、ダビデ王に、約束されました。

 「わたし(神)は、あなたの息子(ダビデの子)の中から、あなたの世継ぎの子(王位を継ぐ者)を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。

 彼(とこしえのイスラエルの王)はわたしのために一つの家を建て、わたしはその王座をとこしえまでも堅く立てる。

 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。わたしはわたしの恵み(王位)をあなたの先にいた者(ベニヤミン族から出たサウル王)から取り去った(王位を剥奪した)が、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。(彼はとこしえのイスラエルの王となる。)

 わたしは、彼をわたしの家とわたしの王国の中に、とこしえまでも立たせる。彼の王座は、とこしえまでも堅く立つ。」(歴代誌第一17:11-14)

 

 神が、「とこしえのイスラエルの王」と呼ばれた彼とは、ユダ族から出たユダの獅子、神のひとり子イエス・キリストを指します。

 神は、ダビデの系図の大工のヨセフの家に、ダビデの町ベツレヘムで住民登録したイエスをお与えになりました。ヨセフの許嫁の妻マリアが産んだ神のひとり子イエスです。

 

 神は、ダビデ王に約束されたことを、神のひとり子イエス・キリストにあって、実現されるのです。ダビデ王から千年経ったイスラエルに、ローマ帝国の統治下でユダヤ属州とされたイスラエルに、神のみことばは成就しました。

 

 イエスを養う父はダビデ王の子孫のヨセフです。ナザレの町の大工です。イエスは、神に仕える祭司のレビ族から出たのではありません。祭司を出していないユダ族から出られました。イエスは、ヨセフの息子、大工のせがれとして、ナザレの町で成長しました。イエスは、神の家を建てる者です。

 

 神はダビデに仰せられました。「わたし(神)は、彼(神の御子キリスト)をわたしの家(イスラエル)とわたしの王国(神の国)の中に、とこしえまでも立たせる。彼の王座は、とこしえまでも堅く立つ。」

 

 とこしえの神の家(永遠に生きる新生したイスラエル)を建てるのも、神の民を集めて神の国(千年王国)を確立するのも、イスラエルの王であられる、神のひとり子イエス・キリストなのです。

 

 私たちは、神のみことばが実現したことの証人であり、ダビデに約束されたとこしえの王、神のひとり子を知り、イエス・キリストの御名を信じる者です。

 

 ユダヤ民族の父ヤコブ(イスラエル)は、ヤコブに憎しみと殺意を持つ兄エサウから逃れるために母リベカに送り出されて四十代でひとり家を離れ、それ以降、母に再び会うことはできませんでした。

 最愛の妻ラケルを失いました。最愛の息子ヨセフを失いました。息子のシメオンもいなくなり、ベニヤミンをも取ろうとされ、ヤコブは、「こんなことがみな、私(ヤコブ)にふりかかって来る。」と言って落胆しました。

 

 長子のヨセフを失うことは、アブラハム、イサクから、神の契約と祝福を受け継いだヤコブが、アブラハムの神の契約と祝福を受け継ぐ跡取り(相続人)を失うことです。ヤコブが仕えているアブラハム、イサクの神に対して、ヤコブは負い目を感じます。ところが神は、ヤコブの十二人の息子すべてを相続人とされました。

 

 そして、ついには、「全能の神がその方に、あなたがたを憐れませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟シメオンとベニヤミンとをあなたがたに帰してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」(創世記43:14)と言って、神にゆだねたのでした。

 

 一方、エジプトの大臣から間者扱いされたヨセフの兄たちは互いに言いました。

 「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれ(弟のヨセフ)がわれわれに憐れみを請うたとき、ヨセフの心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」(創世記42:21)

 

 兄たちは、兄たちに憐れみを請う弟ヨセフをエジプトの奴隷商人に売ったことの報いを受けていると考えました。弟を売った兄たちの心には平安がなく、後悔にさいなまされていたのでしょう。

 

 ヤコブも自分の人生にふりかかることを、兄エサウから奪い、父イサクを騙したことの報いと受け取っていたのでしょうか。すべてのことは、神の御計画のうちにあった事でしたが、ヤコブの心は悲しみでいっぱいでした。

 

 しかし、全世界を襲った飢饉に備え、ヤコブとその家族を地に残して神の大いなる救いによってヤコブ一族(ユダヤ民族)を生きながらえさせるために、神は、ヨセフをエジプトに遣わし、エジプト全土の統治者とされたのでした。

 

 ヨセフは言いました。

 「今、私(ヨセフ)をここ(エジプト)に遣わしたのは、あなたがた(エジプトの奴隷商人にヨセフを売った兄たち)ではなく、実に、神なのです。」(創世記45:8)

 

 神は、兄たちの妬みと憎しみを使って、イスラエルの長子ヨセフをエジプトに遣わされたのでした。

 

 ゲームセンターに、大きなパチンコ台を寝かせたようなゲーム台があります。突き棒を強く引っ張ると、ゴルフボールより少し小さな白い球が勢いよく押されます。球の通り道にはいくつかのポイント個所があって、そこに球がぶつかるとライトが付いて、そこに書かれたそのポイント数が加算されて、点数の多い方が良いというゲームです。

 ポイント個所に当たらず、すんなりと球が通り過ぎてしまうとがっかりします。球に勢いがあると、左右上下に何度も行き来して、点数が加算されます。そんなときは、わくわくします。

 

 私は、神の苦しみや悲しみや試練を、このゲーム台に置き換えて考えていました。試練を多く乗り越えれば、神の評価が高くなる、と考えたのです。そう考えることで、悲しみも苦しみも良いものに思えました。

 

 ある日、宣教師が私に、自分は苦しみのとき、詩篇133:2のみことばを思って耐えたと言われました。試練は頭の上に注がれた尊い油であると言われたのです。

 「頭の上に注がれた尊い油のようだ。それは髭に、アロンのひげに流れてその衣にまで流れしたたる。」(詩篇133:2)

 

 このみことばでは、兄弟たちが一つになってともに住むことを言っているのですが、私は宣教師の助言を、神のことばと捉えました。

 

 ダビデ王は言います。

 「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたの掟を学びました。

 あなたの御口の教えは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。」(詩篇119:71、72)

 

 苦しみを受けて、神を仰ぎ、神の慰めを求めることは恵みです。神のことばは心の痛みを癒し、悲しみの先にある光(永遠のいのち)を見させてくれます。そして、神の憐れみと愛を体験するのです。

 

 苦しみは呪いではありません。苦しみは、見えない神を見させてくれる恵みであり、神のものを得させてくれる祝福なのです。

 苦しみに会う者にしか得られない神の愛の深さ、広さ、高さを、神は、悲しむ者にそっと見せてくださるのです。