ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

聖め 新生 復活

 

 「イエス・キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」(コリントⅠ 1:30)

 

 人間の知恵は、呪われた善悪の木の実です。そこに、神の知恵はありません。悪魔から出て、地に属するものです。それは、天に通用するものではありません。時が来れば、永遠の火で焼き尽くされるものです。

 

 人間は滅びゆくものに振り回され、永遠を知らずして、滅びゆくものを追いかけています。滅びゆくものを追う人間もまた、滅んでいきます。

 

 善悪を知る知識の木の実を食べ、善悪を知る知識を模索する世に、神は、神の知恵を送られました。神の知恵は、善があるのみです。然りがあるのみです。贖いの神の子羊イエスです。イエスご自身が、神の知恵でした。永遠の昔から神とともにおられた神のひとり子であり、永遠のいのちです。

 

 人類が追い求めた「不老不死」「永遠の救い」は、この神の知恵にあったのです。神の知恵の外にそれを捜しても見つかりません。神の知恵(イエス・キリスト)の外にある知恵は、善悪の木の実の知識と死と呪いがあるだけです。

 

 神の知恵には、神の義があり、罪の聖めがあり、贖いがあるのです。神から出た知恵は、神の元に導く、天に属する知恵です。地では役に立たない愚かな知恵です。地に属する者には分かりません。

 

 地に属する者は、努力と鍛錬と修行を尊びます。しかし、神の知恵は、それを嘲笑います。肉なる努力は永遠の実を結びません。永遠に残る実は、朽ちて行く肉ではなく、霊的なものです。

 

 地に属するこの世では、永遠のことが明らかにされていません。天上の事は、天上の方に教えられなければ、知ることができないのです。

 

 神は、天から神の子羊イエスを遣わされました。天から下って来られたイエスが、天上のこと、永遠のことを明らかにされたのです。イエスは、神のことばであり、神の知恵です。神の知恵によって得るものが、永遠に生きるいのちです。

 

 神の子羊イエスは、罪の呪いを負って、生贄の子羊となって木にかかられました。十字架で流された子羊イエスの血は、贖いの血です。神の子羊イエスの血で贖われたものは、すべて聖いとされました。神は、イエス・キリストを信じ、主と告白する者を「義」とされたのです。この義は、天上に上る永遠の義です。「罪はない」と神に宣言される、永遠の義です。これが、神の知恵です。救いも聖めも神から出たものです。神から出たものを受け取って、人は、神の御国に入るのです。

 

 地上から出たものによって、天上に上ることは出来ません。悪魔は、天から追放された者です。第二の天に居ますが、第三の天(神の御国)に存在することは許されていません。第三の天に居場所のない悪魔は、人間を神の御国に入らせることは、決して出来ないのです。

 

 神の知恵は、イエス・キリストを信じた者を聖めます。子羊イエスの血によって、罪は贖われたからです。

 

 

 死後三日目に墓から甦ったイエス・キリストは、天上に上げられ、神の御座の右に着座されました。そして、もうひとりの助け主、真理の御霊を地上に遣わされました。

 

 キリストの血によって、神に聖いと宣言される人々に、聖霊が注がれました。真理の御霊が彼のうちに来て、肉なる者から御霊の思いによって生きる人としてくださるのです。キリストの血の贖いを信じた人は、御霊によって、新しく生まれます。肉なる者ではなく、天上に入る霊なる子として、永遠のいのちを受けるのです。

 

 キリスト・イエスの贖いの血によって聖められた人が、御霊によって新しく生まれ、永遠のいのちで生きる者とされました。信仰の結果である、魂の救いを得ました。イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。彼の魂は、神とともにあるのです。

 

 御霊に導かれる歩みを続けます。この世の価値観と、神の国の価値観は違います。人間の知恵ではかろうとすると、混乱します。御霊の声に従っているうちは、そのことに気づきません。彼の目と耳は、神に向けられているからです。この世の言葉は耳に入りません。

 

 しかし、恵みを分かち合おうとするときに、他の人々の反応に違和感を感じます。この世の反応を体験することになります。自分が宙に浮いた存在のように感じられて不安を持ちます。これは、新生した霊の子の負うべき十字架でもあるのです。地の共感を求めるか、天のものを握るかが、試されます。

 

 肉の性質が死んで、霊の子として新しい価値観に生まれ変わったのです。

 

 「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んで甦った方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

 誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリントⅡ 5:15-17)

 

 キリストの愛に取り囲まれた新しい人は、からだの贖いも受けて、復活のからだが与えられる人です。キリストの血によって「聖」とされた人は、御霊によって新しく生まれ、御霊の教会に入り、復活のキリストのからだとなるのです。

 

 イエスは、御霊の教会の人々に言われます。

 「わたしは甦りであり、いのちです。わたしを信じる者は、死んでも甦り、永遠に生きるのです。」