ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

祈りが神に聞かれる人と聞かれない人

 

  同じ人が祈っても、神に聞かれる祈りと聞かれない祈りという体験はあります。すべての祈りに答えられた、と言う人はいないと思います。神の子であるイエスさえ、神の御心に反して「父よ。この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい」と祈りました。イエスは人の子でもあったからです。

 

  しかし、イエスは父の御心では無い祈りを積むことはありませんでした。「わたしの願うようにではなく、あなたの御心のように、なさってください。」「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞ御心の通りをなさってください」とご自分の願いを神の御前に置き、神の御心にご自分の祈りを合わせられたのです。

 

  そして、十字架に向かわれたのでした。

 

  祈りが聞かれる人、聞かれない人、とはあまり聞く表現ではありません。イエスの御名によって祈られた祈りは父なる神のもとに届けられると言われているからです。

 

  この約束はすべての人に言われているのではないのでしょうか。神は人を差別するのでしょうか。

 

  イエスを信じ、水のバプテスマを受けたばかりの時は、驚くほどよく祈りが聞かれます。赤ちゃんを見つめる親は、赤ちゃんの細やかな動作の一つ一つに喜びが隠せません。飽きることなく見ていられます。神にとっても新生児はそんな感じであるかのようです。

 

  生まれたてのクリスチャンは、神の愛に守られて、嬉しいかぎりです。いつも、神がそばにいて、見つめていて下さるように感じます。

 

  ところが、教会の家族との関わりに慣れ、兄弟姉妹との交流が増して信仰生活の土台が築かれた頃、ふと気づくと、神への祈りは形式的なものになっています。神との交わりが無くても、クリスチャンとしての生活は送れているのです。

 

  祈ることが煩わしいと感じる時もあります。思春期の子が、自分の意思とは関係なく親に反抗してしまう、というような事がクリスチャンの成長の過程でも起こっているのでしょうか。

 

  自分の言葉で自分の思いのまま祈る祈り方まで忘れてしまいます。赤ちゃんの時は誰に教わったわけでもなく、自然に「イエス様、あれが食べたい」とか、「イエス様、これは嫌だ」と自分の心を素直に明かしていたのに、何が妨げているのでしょうか。

 

  祈りとは、こういうものです。という教会の知識を得て、イエスとの個人的な交わりに覆いが掛けられてしまったのでしょうか。

 

  祈りは、教会の徳を高め、教会の祝福のために、教会に与えられたものと思うのでしょうか。祈りは宗教的なものでしょうか。個人的な事を願うのは聖なる神を冒瀆することなのでしょうか。

 

  交流が無くて、イエスを知る事が出来るのでしょうか。人の教える知識で満足できるでしょうか。生きた神の霊を宿す人は、イエスとの個人的交流を欲します。自分自身でイエスと対面したいのです。

 

  聖書には、このような記事があります。

 

  「イエスに触っていただこうとして、人々がその幼子達を、みもとに連れて来た。ところが、弟子達がそれを見て叱った。

 

  しかし、イエスは、幼子達を呼び寄せて、こう言われた。『子ども達をわたしの所に来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者達のものです。

 

  まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」

 

  イエスは、子どもの純粋な心を高く評価しておられます。子どもは、こんなことをお願いしたら失礼だと配慮して、遠慮することがわきまえられません。でも、イエスは、このような純真なあり方こそが、神の国の生き方である、といわれるのです。

 

  人の世界でそのような生き方をすれば、たちまちわきまえの無い愚か者扱いをされ、外に放り出されてしまいます。世では役に立たない者となります。

 

  神の国においては、心にあるまま素直に神の前に出る者は、また、イエスのことばをそのまま純粋に受け入れる者でもあるのです。そこには、偽善はありません。本音と本音の交わりです。そこには、信頼している者同士の交流があります。

 

  イエスは歯に衣を着せぬ祈りを楽しまれます。神の愛を疑わない、神を怖れないその人は、神の愛を信じ、イエスと自分自身の心で交わっているからです。その人の中に偽りを見ないからです。

 

  また、この世に足をつけて祈っている人は、イエスを前にしながら、イエスの話に耳を傾けることなく、慌ただしくイエスをもてなす事ばかりに気を取られているマルタのようです。

 

  マルタは、イエスを喜ばせようとおもてなしの事に気を取られています。正確に言うと、その時のマルタの心はイエスご自身にはなくて、愛するイエスのために忙しく働いている自分自身に向けられていました。

 

  一方、妹のマリアは、イエスの足元に座って、イエスのことばに聞き入っていたのです。マリアの心は自分には向かっていません。イエスを喜ばすためにイエスの話を熱心に聞いていたのでもありません。ただ、神を求めて、イエスの口から出る神のことばに釘付けになっていたのです。マリアは、純粋に神の子イエスを愛していたのです。

 

  忙しくして気が落ち着かないマルタは、とうとうイエスのみもとに来て言いました。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃって下さい。」

 

  実は、おもてなしはマルタの心にある大事な事であって、イエスの関心事では無く、イエスがどうこう言う事ではありません。イエスは、この地上に神と神の国を知らせるためにも来られているのです。イエスの大事な事は、話を人々に伝え、その話の内容を人々が理解し受け取ることなのです。

 

  マリアは、マルタが文句を言うその時まで、マルタが働いている事にも気づかないくらいに、イエスの話に没頭していたのでしょう。マリアの心は、イエスとこの世とに分かれていませんでした。一心にイエスを見つめ、イエスのことばに耳を傾けていたのです。マリアの心は、神の国にありました。

 

  マルタのように世の事に気を取られる人は、イエスから離れたところで落ち着かないで祈り、祈りの答えを受けるまで待ち望むことが出来ません。

 

  マリアのようにイエスに心を向ける人は、イエスのそばにおり、イエスの語り掛けを聞くのです。イエスのことばを待って、イエスのことばを聞き逃しません。

 

  祈りが聞かれる人が愛されており、聞かれない人は愛されていないのではありません。イエスは、マルタもマリアも愛しておられるのです。

 

  人の前ではなく、密室で、イエスに向けて心にあるままを祈りましょう。そして、イエスの答えを持ち望ましょう。