ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

まことの知恵

 

 偉大な知恵者ソロモン王の苦悩が書かれています。

 「知恵ある者は、その頭に目があるが、愚かな者は闇の中を歩く。しかし、みな、同じ結末に行き着くことを私は知った。

 私は心の中で言った。『私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、それでは私の知恵は私に何の益になろうか。』私は心の中で語った。『これもまたむなしい。』と。

 事実、知恵ある者も愚か者も、いつまでも記憶されることはない。日が経つと、いっさいは忘れられてしまう。知恵ある者も愚かな者とともに死んでいなくなる。」(伝道者の書2:14-16)

 

 知恵ある者は、知恵のことばによって先を見通し、光に向かう。彼の思考には、光がある。道理をわきまえない愚かな者は、先の読めない、当ての無いその場限りの思考で、闇の中を歩く。

 

 しかし、この世を知恵深く生きる者も、計画性のない行き当たりばったりの生き方をする者も、同じように死んで行くのです。死は、すべての者に等しく訪れます。知恵者も愚か者も、金持ちも貧乏人も、大人も子どもも、強い者も弱い者も、すべて、行き着く先は、死です。誰も、死を逃れることができません。

 

 そのことを知った知恵者は、心の中で言いました。「私も愚か者と同じ結末に行き着くのなら、それでは私の知恵は私に何の益になろうか。」知恵者だともてはやされたとしても、儚い栄光です。また、人々に知恵を与えたとしても、そのことが自分にとって何の益があろうか。なんて空しいことか。結局行き着くところは同じなのですから。愚か者より何がまさっていると言うのでしょう。

 

 結末が同じならば、愚か者のように何も考えず、面白おかしく一生を過ごした方が楽ではないのか。知恵を持てば、それだけ悩みも増える。本当に、知恵は愚かさにまさっているのだろうか。

 

 知恵者は、神から知恵を与えられていました。しかし、この知恵も、自分自身を生かすものとはなりませんでした。ソロモン王は、知恵を自分の栄誉のために使い、自分の名を上げました。

 

 神の知恵は、人の知恵にまさります。正しい道に歩み、生きるために必要な知恵です。ソロモン王は、神の知恵のことばを書き記しながら、自分自身を生かすことができませんでした。

 

 人は、ソロモン王の知恵を讃えます。しかし、その知恵は神のものです。神御自身が、すべてを持っておられます。偉大な知恵者とされるソロモンの知恵さえも、神の知恵の一部なのです。

 

 神は、ひとりひとりがソロモンのような知恵者になることを願っておられるわけではありません。神に知恵を求め、神の倉から引き出すことを願っておられます。知恵は神のもの、人が知恵者になると、神に頼らなくなります。自分自身を神のように考える者は、いずれ神から離れて行きます。

 

 神に尋ね、神から引き出し、神の知恵を用いる者によって、神御自身が神としての栄光を取られるのです。

 

 知恵のある者も愚か者も、いつまでも記憶されることはありません。日が経つと、いっさいは忘れられてしまうのです。

 

 パロ王は、ヨセフとともにおられる神の知恵によって、エジプトの豊作と飢饉を知りました。パロ王は、ヨセフとともに神がおられるのを知りました。そこで、パロ王は、神の霊の宿っているヨセフをエジプトの大臣に任命し、エジプト全土を治めさせました。

 

 飢饉はすべての国に臨みましたが、エジプト全土には食物がありました。飢饉がひどくなった時、ヨセフは、豊作の間に蓄えた穀物と引き換えに、エジプト中の銀も、家畜も、農地もパロ王のものとしました。また、世界中が穀物を買うために、エジプトのヨセフのところに来ました。

 

 パロ王も、エジプトも、神の霊と知恵とに満ちたヨセフのおかげで繁栄しました。エジプトは、豊かになり、栄え、パロ王もエジプト人たちも、大臣のヨセフを敬いました。

 

 エジプトのスフィンクスは、ヨセフの象徴のように思います。ユダの獅子イエス・キリストのひな型として、この世の象徴であるエジプトの地に残されているように思います。三つのピラミッドは、イエス・キリストが世の終わりに滅ぼす、竜(サタン)と、偽キリスト(七つの頭と十本の角の獣)と、偽預言者(子羊のような二本の角の獣)の敗北と滅亡を象徴しているように思います。

 

 スフィンクスの顔が無いのは、後からユダヤ人の顔のヨセフの痕跡を消すために、故意にされたのだと思います。エジプトでは、ユダヤ民族が四百年間、エジプトの奴隷であった資料は残されていないようです。

 

 ヨセフの功績を知っていたエジプト人たちは、ヨセフの家族も敬っていました。しかし、大臣のヨセフが亡くなると、イスラエル人はエジプトの在留異国人です。イスラエル人は多産だったので、おびただしく増え、すこぶる強くなり、エジプトのゴシェンの地(ヨセフの父ヤコブ一族の住んだ地)はイスラエル人で満ちました。

 

 さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こると、彼は民に命じて、イスラエル人を苦役で苦しめました。過酷な労働で、彼らの生活を苦しめたのです。(出エジプト1:8-14)

 

 エジプトを栄えさせたヨセフの功績は、忘れ去られました。知恵者が言うように、日が経つと、いっさいは忘れ去られてしまうのです。

 

 知恵ある者も愚か者とともに死んでいなくなる、と嘆く知恵者は、神の倉から引き出す、天の御国の弟子ではありませんでした。

 

 神の子羊イエスが天から遣わされ、十字架の贖いの死にて、天が開かれました。イエス・キリストの復活と、聖霊のバプテスマによって、イエスの弟子たちに御霊が下られ、御霊を受けた者は、イエスの御名によって神のものを受け取ることができるようになったのです。

 

 神のことばも、知恵も、御業も、イエス・キリストの御名とともにあります。イエスは言われました。

 「天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」

 

 天国のことを教えられたすべての者は、つまり、御霊を宿し、御霊の教えを受ける者はすべて、御国の倉をいただいているのです。イエス・キリストの御名によって、自由に引き出すことが許されているのです。

 

 御霊の知恵は、神の知恵です。ソロモン王の知恵よりも偉大です。永遠に生きる方の知恵です。また、永遠に生かす知恵です。ソロモン王のように、「むなしい。」とは言いません。感謝と喜びに満ちる、愛と希望といのちの知恵です。