ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

日本人の神、いのちの神

 

  日本人の多くは、赤ちゃんが生まれたら、神社にお宮参りに行きます。赤ちゃんにとっての初参りです。結婚式は、キリスト教式にウェディングドレスに身を包み、キリスト教徒でなくてもチャペルで結婚する人が増えています。お葬式では、それぞれの先祖の宗派のお寺の僧侶がお経を読みます。

 

  生まれたら神社、結婚式は教会、死んだらお寺。神道、キリスト教、仏教、と日本人の生涯に様々な宗教が関わっています。

 

  しかし、あなたの宗教は何ですか、と尋ねられたら、日本人は困ってしまいます。普段、宗教という意識を持って生活していないからです。

 

  神社にお参りしてるから、神道かな?でも、お葬式は仏教でやるから仏教徒かな?う~ん、と考えてから無宗教っていう人もいるかも知れません。

 

  無宗教?そんなことは無いだろう、と感じるのですが、宗教という概念が薄いのでしょう。日本人にとって、神道も仏教も生まれた環境に初めからあるものであって、日本の文化なのです。

 

  おそらく、多くの日本人は自分を取り巻く環境の中に、何か目に見えないものを感じています。それが神だと思っている人もいますし、神だと思わない人もいます。いずれにしても、自然のうちに何かの働き、わからない力が働いていることを感じたり、守りの力が働くのを感じたりします。

 

  昔の人は、「お天道様が見ているよ」と言いました。他人に知られていなくても、見ているものがあることを意識していました。太陽の光を見て、すべては照らされており隠し事は出来ないものだ、と思っていました。

 

  日本人は、太陽を見て手を合わせます。月を見て手を合わせます。大樹を祀ります。しかし、それを宗教と感じている人は少ないのかも知れません。

 

  太陽を拝んでいるし、月を拝んでいるし、水の神、火の神とお札を貼ったり、大樹にしめ縄を張ります。どう見ても宗教ではないか、と思われてしまいますが、日本人は太陽や月を拝んでいるつもりは無く、水や火や大樹を拝んでいるわけではありません。

 

  太陽や月や大樹や水や火を見て、それらを司られる目に見えないものに畏敬の念を抱き、感謝の心を現しているのです。

 

  海に囲まれた日本人は、細長い日本列島の中で、自然を恐れ、自然を愛し、自然の中に宿る偉大な力を畏れ、生活して来ました。日本人は、自然を支配する者ではありません。自然の中で生かしてもらう事を感謝する民だったのです。

 

  「おかげ様で」は、日本人の在り方、生き方そのものでした。自然の恵みの中で、自然のうちに働く何者かの恩恵を身に感じながら、生きて来ました。

 

  神道は、道であって宗教ではないという考え方もあります。剣道、柔道、茶道、華道、のような道なのです。日本人は、道を究めるという生き方とその精神を尊んで来ました。

 

  神の道は、いのちの道です。生かして下さる命の主を敬う道です。自然豊かな環境の中で知った、目に見えない存在にへりくだる道です。人はどこから来たのか、と考える前に、人よりも先に存在しておられる何者かに思いを向け、その方の御前で心低くしてひれ伏す、不思議な道です。先人が設けてくれた道です。

 

  日本人の宗教は?と問う前に、日本人のⅮNAの中には、偉大なるいのち、生かして下さる方の存在が組み込まれているのだと思います。だから、後から付いた宗教という意識は無いのだ、と思うのです。

 

  『菊と刀』という本だったか、ユダヤ人の方が、日本人には、仏教もキリスト教も無い。日本に入って来るものは、全部日本人のものとして日本独特の感性に塗り替えられてしまう。日本人には、日本教しか無い。

 

  日本に入って来たキリスト教は、日本教キリスト派となる。キリスト教として世界に知られているものとは別物である、というような事が書いてあって、その通りだと思いました。

 

  日本人は、アブラハムが出会った神に仕えているのかも知れません。天地万物を造られた神、創造主を、それとは知らずに尊び、畏れ、仕えて来たように感じます。

 

  この神は、すべてを司られる、命を与え、命を取られる、いのちの神です。

 

  日本人は、神社の神を信じていようと、仏教を信じていようと、キリスト教を信じていようと、根底に流れている感性、物事を捉える感覚は共通のものを持っています。

 

  その感性は、日本人が生まれ持っている独特なものであって、その神の道を通して話し合うと、仏教徒も神道の信徒もキリスト教徒も、分かり合えるものがあります。宗教が違うはずなのに、何故か同じものを信じているかのような、深いところの理解がつながるのです。

 

   残念ながら、キリスト教に入信すると、日本人である事を捨てなければならないと思うクリスチャンは、この素敵な能力を失ってしまうようです。

 

  それで、このいのちの神という観念においては、クリスチャンとよりも、信じる宗教が違うはずのキリスト教徒では無い日本人、或いは無宗教と言っている日本人との方が、分かり合えると感じるのです。

 

  日本人は、日本人のままで、聖書の神を信じるならば、他の国のクリスチャンとは異なる日本人独自の働きが用意されていると思います。