ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

日本人の霊には神と繋がる部位が備わっている

 

 日本人の心のことを大和の心と称したりします。

 大和の心とは何でしょう。大いなるものと和する心。目に見えない大いなるお方、森羅万象に働かれる霊なる存在を恐れ、その霊と調和する心と捉えました。

 

 八百万の神々と言い表わしますが、それぞれに名前をつけているだけで、実際は生けるもののいのちの主であって、天地万物を統べ治められる目には見えない偉大な存在である方を、その現われ方によって表現を変えているだけだと思います。

 

 緑色の一色でも、日本の伝統色では82色あるようです。翠色(すいしょく)、青柳(あおやぎ)、山葵色(わさびいろ)、花萌黄(はなもえぎ)、深碧(しんぺき)、若葉色(わかばいろ)、花緑青(はなろくしょう)、若菜色(わかないろ)、若緑(わかみどり)、織部(おりべ)、若草色(わかくさいろ)柚葉色(ゆずはいろ)、黄浅緑(きあさみどり)など、とても美しい名前がつけられています。

 

 日本の古語では、夜遅くから夜が明けるまでを時間の移り変わりによって、朝を細かく分類する言葉があります。

 太陽が昇る前、まだ空がほの暗い時間帯を暁(あかつき)と呼び、夜明け前の東の空がわずかに明るくなり空が茜色に染まる様子を東雲(しののめ)、夜がほのぼのと明け東雲よりもさらに明るくなった曙(あけぼの)、早朝を黎明(れいめい)と表現するようです。

 

 日本人は、自然とともに生きてきました。自然の事物を表現する語句が豊かにあります。自然を愛で、自然とともに生きてきました。

 自然に逆らう者ではなく、自然の恩恵を受け、生かされていることを意識してきた民族です。自然の恵みを感謝する心が、水の神様、火の神様とそれぞれの事物を神の名で呼び、神への恐れを抱いてきたのでしょう。

 

 無宗教と言われる日本人ですが、信仰心のあつい民族だと思います。自分を取り囲むすべてのものに神を意識しています。神の存在を否定する人々もいますが、神の存在を信じないと言いながら、食事をする前に手を合わせて「いただきます。」と言います。

 「お天道様が見ているよ。」とは昔から言われている言葉です。直訳すれば、太陽(天照大神として見ている太陽)が見ているということになりますが、「誰も見ていないようで、見ているお方がいる。」と言っているのです。

 

 神道は日本人の信仰の心を育む道のようなものです。宗教ではありません。生活に根づいたもので、大和魂を育むものでしょうか。神社は昔から子どもたちの遊び場であったり、日本人の生活に入り込んだ風習のようなものです。それぞれの地域に氏神がまつられ、地域の住民たちが当番制で守ってきたようなものです。日本人には、神を敬う心があります。しかし、宗教としての認識はありません。日本人の国民性の一部となっているのです。

 

 山や野や川や海が自然のものであるように、神々は日本人の心にある自然のもののようです。なんとなく、日本人の心は神の中に組み込まれており、神の存在は日本の行事であるお正月や祭りなどとも切り離せないものです。

 今では、日本の国民的行事のようになっている12月のクリスマスのように、宗教意識を持たずして祝っています。クリスマスを祝いながら、イエス・キリストのことを知らないのも日本人の特徴です。

 

 日本人は宗教を受けつけなくても、ありがたいと思う心や、もったいないと思う心や、おかげさまでという心があります。自分の外にある目に見えないものを敬う心と、感謝する心があるのです。

 

 キリスト教を信じるクリスチャンよりも、神道の神を仰ぐ人の方が目に見えぬものに敏感であるかも知れません。

 キリスト教には聖書があり、クリスチャンは聖書の御言葉(文字)に心を向けます。

 神道の人には神示と言われるものが降りてくるようです。日月神示などは有名です。聖書を持たない日本人に、創造主である神のことばが与えられるのです。内容は、聖書とよく似ていて、聖書の神が日本人にわかるように、日本人の持つ大和魂に語りかけているようです。

 

 今年元旦の能登の地震について、翌日に神のことばを受けたという神道系の人がおられます。

 「ななお 300年ひの呪縛が今解き放たれた」「もう案ずるな」

 これは、

 「この地震によって、能登七尾の300年続いた日本人の霊(ひ)の呪縛が(この地震によって)解放された」いうような内容のようです。

 

 また、能登七尾の岩穴集落で300年間、絶やさずに守って来た火がこの地震で消えてしまったようですが、日本人の魂を縛って来た呪縛が解き放たれ、日本人の霊が解放され、日本人の心に信仰の灯がともり、本来日本人のうちに置かれていた神を敬う大和の心が回復されるであろうとのことです。

 300年間絶やさずに守り続けて来た火は、大和魂が失われないように守って来たのかも知れません。地震で消えた火は、能登の人々の心のうちに灯され、その火は消されていないのでしょう。もう案ずるな、ですね。

 

 日本人の霊の中枢が能登に置かれていたようです。この呪縛が解き放れたことによって、日本列島全体、日本人の呪縛が解かれたというのです。

 

 神戸で起きた地震の時には、「『平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしはいやそう。』と主は仰せられる。」(イザヤ57:19)のみことばをいただきました。

 神戸の復興は驚くほど速かったですし、また、その後起きた新潟の地震の時も東北の津波の時も、被災者であった神戸の人々が被災地の人々を随分助けられました。

 神戸は、これから起こる日本の被災者たちの支えとなり、勇気づけとなるために、神が先持って苦しみの中をくぐるのを許されたのだ。神戸の苦しみは日本のためだったのだと思いました。

 

 新潟では何回も地震が起きていますし、何か意味があるのではないのかと思っていたら、日本人が縛られていた古い風習の様なもの、日本人の魂の救いを妨げていた何かが崩れたような思いに至りました。

 それで、石川県や新潟県などで、霊が目覚め、この世のはかないものから解放されて神の御救いを受ける人々が起こされて、日本人全体の救いとなっていきますようにと祈りました。このような祈りは、ほかの被災地のためにはしていなかったので、祈りつつも、不思議に感じていました。

 

 そうしたら、神道系の人に、上記のことばが降りていたことを知りました。なんと、日本の神、神道の神がことばを与えておられました。

 神道の神といっても、私は、日本人が仕えて来た霊なる神は、日本人が知らないだけで実はユダヤ人と同じ神、創造主の神だと思っています。神道の日本人は文字(聖書)によってではなく、霊によって神のことばを受け取っていたのです。

 

 そして、上記の神示を受けた人は、

 「目覚めたすべての日本人が救世主になる。」と言っています。

 

 神と通じる霊を受けて生まれている日本人の霊が神と結びつくならば、いよいよ日本人に与えられた使命を担う時だと思います。日本人だけの救いではありません。日本人の救いは、世界の人々の救いを執り成す務めが開かれるのでしょう。

 祭司(天皇)のおられる日本国の国民、日本人は世界の救いのために執り成すように召されているのではないでしょうか。

 

 神は、日本を経済大国となるように導かれ、日本人は経済的祝福の恵みを体験しました。しかし、それが取り去られてみると経済の豊かさにしがみつくわけでもなく、子どもたちは自分にあるものの中で暮らす知恵を持っています。

 精神的なもの霊的なものに支えられていた日本民族の古の知恵が眠りから覚め、目に見えないものを慕う大和魂が築き直されるところに導かれています。

 

 能登の人々の苦しみは日本人を救うためであったことを思います。世界大戦の時、沖縄県の人々は内戦が本土(本州)に及ばないように、自分たちで食い止めるという思いで戦ってくださいました。

 

 長崎県も広島県も日本に平和が来るために犠牲となってくださいました。私たち日本人は日本民族の日本国を思う思いに支えられ、私たちの内に置かれた神の賜物(神により頼む信仰)によって、民族として守られて来たのだ、日本国民は家族なのだと思いました。

 

 日本人同士にわかる霊的な部分があるのでしょう。先人たちは、日本国を経済大国にするためには励んでくださいました。そして、経済力によって世界の国々を助けて来ました。

 今の時代に生きる日本人は、もともと日本人のうちに置かれた目に見えない霊的な神を信仰する部位によって日本人の使命を担うのですね。そして、経済の祝福に変わって、霊的な祝福で、世界を助け、神に仕えるのでしょうね。

 

 日本は神の国と言われて来ました。神に立ち返った日本人が神の国の国民にふさわしい働き、神の国の国民にゆだねられた霊的な働きに立つ時がやって来たと思います。

 神道の霊的流れを受け継いで来た日本人はユダヤ教徒のようです。生けるまことの神を拝みながら、救世主(神が遣わされた神の御子キリスト)の存在を知りません。日本人が救世主を心に迎えたなら、本当に世界の救いとなることでしょう。