ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

国境は神が定められた?

 

  古代や中世では、国家は人的結合によって成り立っていて、明確な国境線は存在しなかったそうです。ところが、近代になって、自国の利益を目的とするイギリスなど力ある国々が、自然の地形や民族関係を無視して国境線を決めたそうです。

 

  そのため、民族が二つの国家にまたがって分割され、一つの国家が二つ三つの民族によって構成される結果を招いたのだそうです。また、宗教的にも統一性がなく、相反する宗教集団が一つの国家内で共存しなければならなくなったそうです。

 

  国境線は国家存立の基盤ですが、イギリスなど当時力のある国が国境線を決めたことで、一つの国家でありながら、国民が融合出来ない原因となっています。

 

  国境線で区切られた国家の中で民族、または宗教の間で紛争が起こる原因となっています。そういった国で内紛が起こるのは、止むを得ない事なのだそうです。

 

  民族によって国を分けたり、或いは宗教によって国境線を設けたならば、このような複雑な問題は起きなかったのかも知れない、と言われています。

 

  これらの話を知った時、なんでこんなことが起こってしまったのか。神が世界を支配しておられると思っていたのに、何故神はこの事を許されたのか、と思いました。

 

  神ではなくて、イギリスなどの人為的なもので世界は回っているのか、と腑に落ちませんでした。

 

  旧約聖書の中から一章、新約聖書の中から一章の二章分の聖書通読を続けて25年以上経ちますが、今年、申命記32:8-9にこんなことが書いてある事に気づきました。

 

  「いと高き方が、国々に、相続地を持たせ、人の子らを、振り当てられたとき、イスラエルの子らの数にしたがって、国々の民の境を決められた。

  主の割り当て分はご自分の民であるから、ヤコブは主の相続地である。」

 

  これは、モーセがイスラエルの全集団に聞こえるように唱えた歌として、旧約聖書に書かれています。

 

  モーセの時代は、奴隷の家エジプトを出て、神が父祖アブラハムと契約された約束の地であるカナンの地(現イスラエル)に入るために、荒野をさまよっていました。この荒野で、モーセが神から十戒を授けられ、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫のへブル人は、神に仕えるイスラエル民族となったのでした。

 

  それまでは、神の契約は、ノアとの契約であったり、アブラハムとの契約であったり、アブラハムの子イサクとの契約であったり、イサクの子ヤコブとの契約であって、神と神が選んだ個人との契約でした。

 

  しかし、十戒を与えたモーセを通して、神はヤコブの十二人の息子らの子孫であるユダヤ民族と契約を結ばれたのです。

 

  世界で初めて、神に仕える民族が誕生したのです。この民族の父はヤコブであって、神がヤコブに与えられた新しい名イスラエルの名で呼ばれました。

 

  彼らはカナンの地に入り、約束の地を所有して、そこで、イスラエル国家が誕生しました。

 

  イスラエル国家を形成するユダヤ民族に、エジプトから共に上って来た在留異国人や寄留者が割礼を受けてユダヤ民族の祝福の中に加わり、イスラエル民族と呼ばれました。

 

  バベルの塔の時代に、主が人々をそこから地の全面に散らした、とあります。

 

  いと高き方、天地万物を造られた全能の神が、イスラエルの子らの数にしたがって国々の境を決めており、国々の相続地には、人の子らを振り当てた、とあります。

 

  イスラエル民族が生まれた後も、バベルの塔の時代に国々に分けられた同じ神が、国々の民の境を決められたように思います。

 

  何故なら、主の割り当て分はご自分の民イスラエルであり、ヤコブの子らへブル人が主の相続地である、としておられます。まだ、イスラエルの国が建国される前にその事が語られているのです。

 

  イスラエルを贖う、その聖なる方、主は、人に蔑まれている者、民に忌み嫌われている者、支配者の奴隷とされている者に向かっていわれました。

 

  「わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう。わたしは捕らわれ人には『出よ』といい、闇の中にいる者には『姿を現せ』という。」

 

  ヤコブの血肉の子孫ユダヤ人は、神のご自分の民であり、この地上にあって神の住まわれる主の相続地なのです。

 

  神は、ご自分の民イスラエルと共に出エジプトした在留異国人のように、御子イエス・キリストによって救われる民を、ご自分の民イスラエルに加えられるのだと思います。

 

  終わりの時代には、神がイスラエルの中に加えようとしておられる人の子らの数が偏らないように、国々にまんべんなく割り当てられてた結果、今のような国境線になったのかも知れない、と思います。

 

  それで、力ある国が民族や宗教にこだわらずに割り振った国々の民の中には人の子(イエス・キリスト)の中に入るはずの人の子らが、割り振られているのではないのか、と思いました。彼らは、その国で、神を証する者となり、人々を救いに導くのです。

 

  天を造り出し、これを引き延べ、地とその産物を押し広め、その上の民(ご自分の民イスラエル)に息(永遠のいのちの主イエス)を与え、この上を歩む者(キリスト信者)に霊(永遠に生きる御霊)を授けた神なる主は、御子イエスを民の契約とし、国々の光とされるのだ、と思います。

 

  そして、終わりの日に荒れ果てたイスラエルの地にキリストの王国を興し、イスラエルはキリストの民となり、キリストはイスラエルの王となるのでしょう。

 

  国々で人に蔑まれ、民に忌み嫌われ、支配者たちの奴隷であった捕らわれ人や闇の中にいる者に声をかけて、主はご自分の民を慰め、悩める者を憐れまれるのです。

 

  国境線は、神に立ち返る者達を悩まし、神を探し求めさせ、ついには神の民イスラエルとして、彼らを救う良いご計画のために引かれたのかも知れません。