ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

御霊の導かれる道は安全

 

 「エジプトの王、ファラオがこの民(イスラエル)を行かせたとき、神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道に導かれなかった。神はこう言われた。

 『民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。』」(出エジプト13:17)

 

 イスラエルは、四百年の間、エジプトで奴隷として生活していました。エジプトを出た時のイスラエル人はみな、エジプト人の奴隷へブル人の子として生まれ、奴隷として成長しています。

 

 イスラエルは、国を持つ者ではなかったのです。外国の国エジプトの寄留者であり、エジプト人の奴隷でした。

 奴隷の子は、奴隷を生みます。イスラエルは、奴隷の民族だったのです。エジプトの繁栄のために労役を課された奴隷です。労働のために生まれ、労働するために生きていたのです。

 

 神は、イスラエルの父祖アブラハムに約束されたとおり、四百年間の奴隷の時が満ちると、いよいよカナンの地を所有させるために、ヤコブの子ら(ユダヤ民族)を奴隷の家エジプトから連れ出し、先祖に約束されたカナンの地に連れ上られたのでした。

 

 奴隷として生まれ、奴隷として育ったイスラエルは、エジプトの建造物を造り、大国エジプトの祝福となっていました。しかし、彼らには自由意思も、神の契約の民としてのアイデンティティーも与えられていません。生きるも死ぬもエジプトの手にあります。生かすも殺すも、エジプト次第です。

 

 イスラエルには奴隷のアイデンティティーが培われていました。エジプトが課した労働を黙々とこなすだけです。逆らえば命がありません。生きたいならば、言われたとおりに従うしかありません。

 

 ヤコブの子ら(ユダヤ民族)は、エジプトの地で、奴隷気質の民族となりました。生まれた時から奴隷なのです。奴隷でない者はひとりもいません。すべての者がエジプトの奴隷でした。

 

 しかし、神が召されたモーセひとりは、神の保護によって、ファラオの娘、王女の子として育てられ、エジプトの最高の教育を受けました。

 へブル人の男の子は生まれてすぐに殺されなければなりませんでした。王の命令です。すべての男の子は、ナイルに投げ込まれました。しかし、モーセは三か月間家族に守られ、とうとうナイルの水に浮かべられました。

 

 神の導きは守りです。神は、王女の心を動かし、ナイルの水に浮かぶかごの中に入ったへブル人の男の子を慈しみ、我が子として育てる心をお与えになりました。王女はその男の子に、「水の中から、私がこの子を引き出したのです。」と言って、「モーセ(引き出す、の意)」と名づけました。

 神は、子どもを生んでいない王女に代わって、乳の出るモーセの実の母を乳母とされました。神のなされることは、なんという不思議でしょうか。

 乳離れするまで、モーセは、実の母のもとで、実の家族の中で育てられたのです。モーセは、へブル人のしつけを受けました。エジプトの王女の子が、奴隷のへブル人(ユダヤ民族)の中で、神の契約を持つアブラハムの子孫としての教えを受けていたのです。

 

 モーセが大きくなると、乳母である実母は、ファラオの娘のところに連れて行き、モーセは王女の息子となりました。

 

 モーセは、エジプトの王女の子として、エジプト人の中で育てられたへブル人でした。

 モーセは、王女の子として成長し、エジプトの豊かさを享受しました。しかし、モーセは成人したとき、神が心に働き、ファラオの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の愉しみを受けるよりは、むしろ神の民イスラエルとともに苦しむことを選び取る者となったのです。

 

 モーセは、信仰によって、キリスト(イスラエルの御救い)のゆえに受けるそしりを、エジプト(この世)の宝にまさる大きな富と思ったのです。モーセは、報いとして神から与えられるもの(父祖アブラハムの約束の成就)から目を離しませんでした。(へブル11:26)

 

 アブラハムの神は、この世の神ではありません。この世の奴隷の神ではありません。この世のものは移ろいます。しかし、まことの神は生きておられ、変わることがありません。神は、奴隷の苦役から解放してくださるのです。

 

 神は、イスラエルを安全に導くために、カナンの地への近道であるぺリシテ人の国の道には導かれませんでした。イスラエルは戦いを学んではいませんでした。戦うペリシテ人を見て、イスラエルの人々が恐れをなしてエジプトに引き返し奴隷のくびきを負うことのないように、神は、紅海に沿う荒野の道に回らせられたのでした。

 

 荒野は、食べ物も水もない道です。しかし、無から有を生じさせられる神は、イスラエルを荒野に導き、天からマナ(主がイスラエルに食物として与えられたパン)を降らせ、岩から水を湧き出させて、百万人以上のイスラエルを、荒野で養われました。

 

 荒野には、民を襲う敵はいません。神は敵によってではなく、何もない荒野で民を試みられました。

 

 エジプトの奴隷であったイスラエルは、父祖アブラハムに約束されたカナンの地を所有するために、カナンの地に向かっていました。

 四百年間、奴隷であった民です。自分たちの国を持つとはどういうことでしょう。自分たちが所有するべき土地があるのです。それは、アブラハム、イサク、ヤコブの神が、割礼の契約によって、イスラエルに約束された確かなものでした。モーセは、信仰によってこの約束を受けたのでした。

 

 神は荒野で、イスラエルにお会いになられ、御自分の民とされました。

 神の律法を与え、神に仕えることを命じられました。

 

 神は、モーセにこう命じられたのです。

 「あなたは、このように、ヤコブの家(ユダヤ民族)に言い、イスラエル(モーセに従いエジプトから出て来た神の民、ユダヤ民族とともに出て来た割礼のしるしを持つ在留異国人も含む)の人々に告げよ。

 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。

 今、もしあなたがたが、まこにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。

 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。

 これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」(出エジプト19:3-6)

 

 神は、イスラエルをエジプトから連れ出すために、数々の不思議なわざを現わされて、イスラエルは、全能の神の偉大なる御力を体験しました。

 エジプトに下された十の災いと、子羊の血による裁きの過越しと、紅海での奇跡によって、神は、エジプト人とイスラエル人を区別されました。また、荒野での養いをもって、神がイスラエルを愛し、イスラエルを守られる神であることを明らかにされました。

 

 神は、ユダヤ民族の父祖アブラハム、イサク、ヤコブの神であられ、先祖に約束された祝福を、イスラエルに与えることを契約されました。神が先祖と契約を結ばれたように、再び、ヤコブの子ら(ユダヤ民族)と契約を結び、神の国民として与えられる民族の祝福の契約を受けたのでした。

 

 神は、先に御自身の力強い御手のわざをイスラエルに現わされて、この力強い神に仕える民としての契約を結ぶことを要求されました。神に聞き従い、神の契約を守るなら、すべての国々の民の中にあって、イスラエルは全能の神の宝の民となり、祭司の王国、聖なる国民となることを約束されました。

 

 イスラエルを奴隷の家エジプトから救い出されて、先祖に与えると約束されたカナンの地に導き上らせられる生ける神に聞き従い、神の契約を守るならば、神は、イスラエルを神の宝の民とし、全地にあって、生ける神の祭司の王国、聖なる国民となることを約束されました。

 

 国を持たない民族、四百年間、エジプトの奴隷であったユダヤ民族、アブラハムの子孫イスラエルに、神は、王のいる祭司の王国となると仰せられたのでした。

 

 モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらのことばをみな、彼ら(イスラエルの人々)の前に述べました。

 すると、民はみな口をそろえて答えました。

 「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」(出エジプト19:8)

 

 こうして、イスラエルは、神に聞き従うことを誓い、神の民となったのでした。

 エジプトの奴隷(この世の奴隷)が、エジプト(この世)から救い出され、先祖に約束されたカナンの地(現イスラエル)で神の祭司の王国の国民となったのでした。

 

 エジプトでの労役から解放されたイスラエルは、神の律法を守り、神に聞き従う神の奴隷となりました。この世の奴隷から、神の奴隷となったのです。四百年間エジプトの奴隷であったことは、神の奴隷となるための備えの期間であったのかも知れません。エジプトの権威に仕えたへブル民族は、神の権威に仕えるイスラエルとして選ばれました。

 

 そして、イスラエルは、神の御子を生み、神の子羊イエスを十字架で屠って、墓から甦られ永遠に生きられるキリストを王として迎え、全世界の救いの基の聖なる国民となるのでした。

 

 神には目的があります。そこに導かれる道が荒野であっても、実は、民にとって安全な道なのです。なぜならば、この世に引き返すことのないように神が選ばれた道だからです。

 

 人は、危険のない安全な導きを願いますが、神は、この世から救い出した民が再びこの世に引き返すことのないように、荒野を導かれます。荒野は何もない不自由な所ですが、この世の人の攻撃や誘惑から守られ、世の霊から民の霊が守られるのです。孤独ですが、神を呼び求め、神にすがり、神に信頼することを学び、霊が強められる安全な道なのです。