ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

地上での務め

 

  キリストを信じることが出来たのは、神の恵みです。イエスが神の御子であると信じることが出来たのは、御霊の働きです。

 

  どうして、この奇しい恵みを受け取っていながら、クリスチャンは世の人々の中で、弱弱しいのでしょう。何故、下を向くのでしょう。

 

  世の人々は、死が訪れた時、初めて気づくのです。あの弱弱しくて、惨めで、みすぼらしく見えたさえないクリスチャン達、世の敗北者と思って鼻にもかけなかったあの低い者達の持っていた宝の価値に。

 

  そうです。クリスチャンは、この世で買うことの出来ない永遠の宝を持っているのです。

 

  お金持ちは、何でもお金で手に入ると思っています。それで、お金を得ること、増やすことへの努力を惜しみません。

 

  貧しい者は、お金のかからない生活を知恵を絞って、導き出します。お金を使わなくても得られるものを得ていきます。目に見えないもの、知恵や救いを求める心が生み出されるのです。

 

  お金持ちよりも、この世で取るに足りない者の方が先に、神を見出します。自分の中に、自分の生活の安全を保障するものの無い彼らは、幼子のように、神にすがります。彼らは、この世から得る事の無い神の恵みを受け取ります。

 

  この世で認められない者達の中に、どんな宝があるというのでしょう。世の人々は、華やかな者、この世でもてはやされる者達に目を向け、この世に馴染まない古臭いクリスチャンの考えを嘲笑います。

 

  クリスチャンは、世の人々に嘲笑われて、自分は価値の無い者、愚かでつまらない者と思い込まされます。世には自分の居場所がないと思います。

 

  「世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」教会は、みことばを持って励まします。教会で勇気づけられますが、世の荒波で、その微かに灯った勇気も吹き消されてしまいます。

 

  クリスチャンが、この世で生きることは、苦しいことです。自分の立っている信仰の土台までが、揺り動かされるようで、信仰に立ち続けることには、努力が必要です。

 

  信仰があれば、と言いますが、その信仰を持ち続けることに、力を使う必要があります。この世に抗うために、力を費やします。信仰の歩みは、逆流を泳ぐ鯉の在り方に似ています。

 

  この世の流れに身を任せる生き方の方が、断然に楽です。しかし、それは、広い道であり、その先は、死の道、滅びの道なのです。

 

  クリスチャンの労苦は、神がご存じです。イエスもその道を歩まれました。イエスは神の御子であり、人を造られた方でした。しかし、被造物である造られた側の人間の方が主人となっているこの世は、神を嘲笑っているのです。

 

  真理を偽りで覆い隠したこの世で、土に埋められて隠されていた真理を掘り当てたのが、クリスチャンです。隠したのは神ではなく、実は、神を憎むこの世の人々が、自分達を裁く神を憎み、真理を嫌い、土に埋めてその存在が無いものとしたのです。

 

  真理は世にとっては、自分達を罪に定めるものです。罪を宣告する真理を世から取り除き、刑罰から逃れる事を願っています。

 

  真理の光は、世にとっては、憎むべきものです。自分達の闇が暴かれるからです。

 

  このような状況で、神を神として信じ、イエスを神の御子として受け入れることが出来た人は、世の中の奇跡なのです。

 

  自分の罪を隠し、自分には罪がないと偽り、闇の中に居て、光を憎む世にあって、自分の罪を認め、罪を告白し、罪の赦しをキリストに求めるのは、光の子です。光を愛する者です。

 

  光を愛する人々に申し上げます。この世の荒波で打ちひしがれて、自分には力が無い、神に役に立たない者だ、と意気消沈している人に申し上げます。

 

  光の子としての悩みを感じていることが、神に覚えられている者の証です。神の側に居る者であって、闇の者ではありません。滅びる者ではありません。

 

  神はすべてのクリスチャンに神の務めを与えておられます。神の民でなければできない務めです。

 

  それは、神を賛美し、感謝することです。どこの場所にあっても、心の中で神の愛、神の恵み、神の奇しさを感謝し、賛美することが出来ます。

 

  自分が救われた事を感謝することも出来ます。罪を贖ってくださったことを感謝することも出来ます。信号が青であったことも感謝出来ます。欲しいと思っていた商品が残っていたことも感謝出来ます。目の前に食べる物がある事にも感謝できます。

 

  この日常の小さな感謝に力が無いと思っていませんか。このキリストの神に感謝する祈りと神を褒めたたえる賛美は、悪魔の脅威なのです。世の人々は恐れませんが、この世を支配する悪魔は震えおののくのです。

 

  クリスチャンのキリストの御名による祈りは、地上に御霊の働きを促します。クリスチャンの賛美は、闇に光を入れる穴を開けるのです。闇は光を憎みます。しかし、賛美は、光を世に招き入れるのです。

 

  賛美と感謝と祈りに、悪魔は太刀打ちが出来ません。この世の支配者である悪魔は、光の子らが空ける穴を塞ぐために翻弄されます。

 

  クリスチャンの祈りに感謝します。日本列島を覆っていた黒雲は力を失って参りました。日本列島を寝床として横たわり、寝そべっていた龍(聖書では悪魔を龍と呼んでいます)の姿は、砂の山のように崩れ落ちて、日本人が目覚める時が来たようです。

 

  クリスチャンの地上での務めは、置かれている場所で神を褒めたたえ、常に神を覚え、キリストへの感謝と愛を告白していくことです。これは、他人に伝道することではありません。まず、自分自身が神を讃える楽器となることです。

 

  悪魔が最も恐れていることなのです。これらのことに、クリスチャンが気づくことを妨げて来ました。

 

  闇の支配者、悪魔の居場所は、光の内にはありません。キリストを主と告白する光の子らは、自分達が居る光の空間を広げていきましょう。この世の闇に、光の道を設けていきましょう。

 

  この世をキリストの御名によって勝ち取っていきましょう。闇の原始林にキリストの御名の鍬を入れて、光を招き入れて、光の開拓者となりましょう。