「あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。
神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。
罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。
しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:16-23)
人は、自分で自分の命を生きているように見えて、実は、他のものに生かされているのです。自分の意志で生まれて来たのでも、自分自身で寿命を決めているのでもありません。
いのちの根源である方は、「わたしはある」と名乗られる全能者です。天地万物を造られた神です。人は、この「わたしはある」と仰せられる神の御意思で生まれ、神の定められた命の時間を過ごしているのです。
それゆえ、私たちはみな、「わたしはある」と仰せられる神にあって、「私」という場を得ているにすぎません。「私(人)」は、実は、己によって存在しておらず、目に見えない「わたし(神)」によって在る者です。「私」が存在しているようで、実は、「わたし」という存在によって存在しており、神のいのちの息を体験しているのです。
「わたしはある」と仰せられる神は、御自身で存在しておられる全能者です。ほかのものの助けは要りません。永遠の昔から有るお方で、万物はこの方によって造られ、この方によって保たれているのです。
「わたしはある」と仰せられる神の中に、すべてのものは存在しています。すべてのものは、神のいのちによって生かされています。人はみな、創造主のいのちの息によって現われ、また、神の良しとされる時に消えていきます。
天地と人が造られる以前、まだ、水も何も存在していない有史以前、しかも闇の存在しない光であった頃、「わたしはある」と仰せられる神の主権に逆らい、自分が主であることを願った天使長ルシファーがいました。
「父なる神」と「ひとり子である子なる神」と、「聖霊」と、神を賛美し神に仕える御使いたちの世界は、光でした。暗いところは一つもありません。すべてはひとつであり、神がすべてを覆い、安息がありました。
そこにいた天使長ルシファーが、神のひとり子に妬みを持つことで不和が生じました。神は妬む神でもあります。しかし、それはいのちの光の中で生かすための妬みです。ルシファーの妬みは、神のひとり子を自分の足の下にして、自分がすべてのものの上に立ちたいという野望ゆえの妬みでした。
「わたしはある」といういのちの光の中で、別の「わたし」が現われたのです。「わたし(神)」の主権に不服を持つ異分子の「偽りのわたし(ルシファー)」が立ち、光の秩序を乱しました。
「わたし」は神おひとりです。神を離れて存在する個は存在しません。神に背いて光から追放された堕天使は、神に対して、自分の存在を主張しました。神は、彼が反逆者として存在することを許されました。それで、光から追放されても、暗闇を居場所として存在し続けました。
天から追放された堕天使は数多くいました。天使長に付き従う天使たちがともに天から落ちました。しかし、すべての天使が天使長と同じ心だったわけではありません。光から追放された後で、とんでもないことになったと驚愕する堕天使も多くいたでしょう。
天使長の罪が明らかになったのです。神に罪を犯すことは、彼ら(悔いる堕天使)の望むところではありません。彼らは、神から独立することや、神の支配から出ることを望んだわけではありません。悪魔となった堕天使長ルシファーに従う堕天使も多くいましたが、悪魔に仕える悪霊になることを望まず、悪魔の支配から逃れようともがく堕天使も数多くいたでしょう。 神は、悪魔の支配を憎む堕天使の救済を御計画されたのでしょう。
神は天から追放した堕天使のうち悔いる堕天使を、悪魔の支配する闇から救い出すために、暗闇の中に天地万物を造られたように、私には思われます。宇宙は、どこまで行っても漆黒の闇です。聖なる神の主権に逆らう者が光から追放されて、得た居場所です。
天地万物が造られる以前から闇があり、天から追放された堕天使がいました。被造物は、光の支配者(神)と光に立ち向かう闇の支配者(悪魔)が存在するところに造られました。神は、良い麦もいっしょに抜いてしまうといけないから、収穫の時まで、毒麦はそのままにして置きなさい、と言われる主人です。
すべての決着がつくまでは、この世には、神の支配と悪魔の支配とがあります。まことの支配者と、偽りの支配者です。光の主人と闇の主人です。主人がふたり存在するところに、人は造られたのです。支配者である主人に対して、造られた被造物は奴隷です。
奴隷は奴隷。主人になることはありません。ひっくり返ることはありません。奴隷は主人に服従します。堕天使は、秩序をひっくり返そうと反抗して、無理やり主人になりすましているのです。悪魔は偽りの主人、闇の支配者、罪の根源です。
神がいのちの支配者ならば、悪魔はいのちを消す罪の支配者です。いのちの支配者はいのちを与え、罪の支配者は死を与えます。
人は、神の従順の奴隷として造られました。神のことば(神のひとり子)とひとつのものとして造られました。いのちの息によって、生きた者となりました。神のことばによって、いのちとひとつでした。
闇の支配者、偽りの主人、騙す者、罪の根源である悪魔が人に近づき、蛇の言葉によってそそのかし、人を神のことばから外れた罪人としました。悪魔の支配下に捕らえられた罪人は、その主人である悪魔と同じ運命を負わされます。罪の報酬は死です。
死に捕らわれた罪人は、悪魔の奴隷です。悪魔の支配下にある罪人は、まことの主人(神)に逆らう、罪の奴隷です。罪の奴隷は、神の義から遠く離れていました。不義なる罪人の罪の贖いをしたのは、神のひとり子イエスです。イエス・キリストは、悪魔の支配を打ち砕きました。キリストに繋がる罪人は、罪が贖われて神の義を得ます。
神の義を得て、罪赦された人は神と和解し、偽りの主人から救い出されてまことの主人(神)のもとに帰ることができます。まことの主人は、いのちの神です。いのちの神は、悔い改めて神のひとり子イエス・キリストを信じる者に、生かす御霊を授けて、神の支配に入った者の証としてくださいます。
罪人は、偽りの支配者、破壊者である悪魔に支配されて、罪の奴隷でした。罪の奴隷は、自分の手足を汚れと神に逆らう不法の奴隷(天の法から外れ天から追放される者)としてささげ、神に裁かれる者として歩んでいました。彼らの行き着く所は永遠に燃え盛る火の池です。
しかし、神のひとり子イエス・キリストの御救いによって、生かす御霊を授けられ罪赦された聖徒らは、その手足を義の奴隷としてささげて、聖なる神に仕える者とされるのです。御霊によって肉に死に新しい創造を受ける聖徒らは、神に逆らう罪の奴隷から、神に従う従順の奴隷に造り変えられていくのです。
神は、罪から解放されて御霊によって新しく造り変えられた聖徒らを、まことの支配者(神)の下に置き、神の奴隷として、聖潔に至る実を得させられます。まことの主人に仕える聖徒らの行き着く所は永遠のいのちであり、天の御国です。
人はいのちの主人にはなり得ません。人の命には限りがあり、世からやがて消え去るからです。永遠に生きておられる方がまことの主人です。
しかし、世の終わりの日に至っていない現在は、まだ、裁きの時ではありません。世の終わりの日の後に、千年間のキリスト(イスラエルの王)の支配が実現します。このことは、ユダヤ民族に与えられた約束の成就です。
神のことばは、一つもむなしく地に落ちることがありません。聖書のみことばは、ことごとく成就します。
イスラエルの王キリスト・イエスは、ユダヤ民族に慰めを与え、ユダヤ人たちの激しい苦しみや悲しみや嘆きは報われます。イスラエルに聖書を授けられた神は、真実なお方です。
千年の間に、イスラエルの王キリストは、神を神とする義なる者、聖なる神を崇め仕えるすべて者に、永遠のいのちを得させられます。こうして、ユダヤ人は神の民として回復し、神の民イスラエルは完成します。
神の民として完成したイスラエルは、エデンの園の管理者のアダムの務めを果たします。すべての堕天使たちは女から生まれる人の子となって、罪の奴隷か、従順の奴隷か、に分かれます。
そして、千年の時が満ちると、縛られていた悪魔が解き放たれて、罪が贖われていない(神のひとり子イエス・キリストを信じない)罪の奴隷どもを召集し、聖なる都に戦いを挑みます。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くします。(黙示録20:9)
神は悪魔と悪魔の民を滅ぼした後に、白い御座の裁きを設けられます。神の裁きは、被造物を、神に逆らう罪の奴隷と、神に従う従順の奴隷に分けます。
神に逆らう罪の奴隷は、彼らの主人である悪魔のいる永遠の火の池に投げ込まれます。
神に従う従順の奴隷は、彼らの主人であられるいのちの神の愛と光の中、天の御国に入り、永遠の安息を得るのです。