ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

世を愛する者は

 

 「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」(ヨハネの手紙一2:15)

 

 なぜなら、すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。

 

 御父とは誰でしょう。神のひとり子イエス・キリストをこの世に遣わされた天の神のことです。神の御子キリスト・イエスの父なる神です。

 父なる神と神のひとり子が、天地万物を造られました。御父は創造主です。すべてのものは、神の被造物です。

 

 ヨハネ3:16には、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子(イエス・キリスト)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを得るためである。」と書いてあります。

 

 神は、神が造られた被造物全体を愛されました。神が神のひとり子イエスを世に遣わされたのは、世を裁くためではありません。神のひとり子イエスを信じ、御子キリストの主権の中に入る被造物を救おうとされたのです。

 

 神は、世を愛されたではありませんか。神のひとり子イエスをお与えになるほどに、世を愛されたではありませんか。それなのに、ヨハネが人に、「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。」と命じるとはどういうことでしょう。「もしだれでも、世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」とまで言っています。

 

 この場合の「世」とは、神が造られた被造物のことではなく、人間が見ているこの世のことです。多くの人は、神による創造という概念を持っていません。自分が神に造られた被造物であると捉える人は、多くはありません。それゆえ、人の思いの中には、創造主も被造物も存在しないのです。

 

 人がこの世を見るとき、目に映る欲(本能)、肉の欲で曇っています。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、妬みの生活は、聖なる神から出たものではありません。人は、聖なる神に不従順なものであって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、生まれながら御怒りを受けるべきものです。

 

 暮らし向きの自慢は、この世のものです。世と世の欲は滅び去ります。世は、自分を主人として生き、主なる神をあざ笑います。いのちの主を悟らず、知ろうともしないのです。

 

 神の存在を認めない世の人々は、いのちの根源を知りません。いのちを自分のものとし、自分が主人となっていのちを支配します。神を神としません。いのちの主を被造物の下に置く彼らは、天地の主、いのちをお与えになられた御父(創造主)を愛していません。

 

 だれでも、世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はない、とヨハネは言います。

 

 創造主が被造物を愛する。そして、被造物は創造主を愛する。それが、愛の姿です。しかし、被造物は、創造主を知ろうともせず、神よりも滅びに向かう世を愛し、闇を愛するのです。

 

 光(神のひとり子イエス・キリスト)が世に来ているのに、人々は光(キリストの御救い)よりも闇(滅びゆく罪の愉しみ)を愛しました。それは、その行ないが悪かったので、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光を憎み、光のほうに来ないのです。

 

 御父を愛する、神を愛すると言いながら、神が遣わされた神のひとり子イエスを受け入れない者は、イエス・キリストを遣わされた神を信じない者です。神を信じない者が、神を愛することはできません。

 

 御父が愛された世は、御子イエスを信じる者のいる世です。神が遣わされた神のひとり子イエスを迎える者のいる世です。御子イエスを信じる者がいるならば、世は滅ぼされません。神は、彼らの救いのために、滅ぼすことを思い直されるからです。

 

 神が御子を世に遣わされたのは、世の悪いのを明らかにして、世を裁くためではありません。世はすでに裁かれています。すべてのものは、罪の報酬の死に向かっているのです。誰ひとり、死から逃れる者はいません。

 

 死から逃れることのできない世の人々が、神の御子によって救われるために、神は、神のひとり子イエスを遣わされたのです。

 御子イエスを信じる者は裁かれません。御子イエスを信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つために、御父は、永遠のいのちのことばを持つ神のひとり子イエスを遣わされたのです。

 

 神の御子イエスに向くならば、心の覆いが取り除けられ、この世の偽りと闇が見えてきます。闇は滅びです。キリストを信じる者は、キリストの御霊によって良心がきよめられ、光を求めるようになるのです。

 

 光を求める者には、イエスのことばは慕わしく、金よりも麗しく、蜜よりも甘く、乾いた心を満たすものとなります。そして、神のひとり子キリスト・イエスのうちに魂の安らぎを見出すのです。神の愛を知るからです。

 

 神の愛を知る者は、世の争いや憎しみや妬みや偽りに別れを告げます。そこには安らぎがないからです。神を愛する者は、光を愛する者です。光の中に、愛と平安と喜びがあります。

 

 聖なる御父は光です。世では見出すことのできない、真理の光です。真理の光は、言い表わした罪を赦し、その人のうちに永遠のいのちを持つための新しい創造をされるのです。

 

 世を愛する者は、聖なる方を疎ましく思い、歯向かいます。目が曇り、偽りに満足し、己の欲とともに滅びるのです。

 

 神の御子イエスを信じると言いながら、世にある欲を愛するならば、神の御救いを侮る者です。そのような人のうちに、神を愛する愛はありません。

 そのような者は、神の御子イエス・キリストを愛すると言いながら、御父を愛する愛はないのです。その人のうちに御父を愛する愛はありません。

 

 その人のうちのキリストを愛する愛は、自分の欲による人間的な愛であって、神が賜物としてくださる御霊の愛ではないのです。