神とともに歩みたいと思う人は、神の中に立つ必要があります。この世と神の両方に足をつけているならば、信仰の歩みは不安定になります。
宣教師のもとで働いていた時の事です。主を愛するひとりの兄弟との結婚を願い、主に求めていました。霊的に開かれた牧師ご夫妻の所へ行って、祈っていただきました。
主は、婦人を通して語られました。「その祈りを主にお返ししなさい。主に献げなさい。」つまり、その祈りはもう終わりにしなさい、というのです。
頭を殴られたような感覚で、頭はくらくらし、頭の中は無の状態になりました。
かつて、神学校で独身の女性牧師の講義を受けたことがありました。1~3年生の姉妹だけの特別講義でした。
女性牧師は、結婚をしようとしていた兄弟との結婚を神が止められた。独身でわたしのために働いてくれないか、といわれた。それで、「それでは、私の牧会する教会には男性の牧師の牧会する教会よりも多くの信者を呼び集めて下さい。」と祈って、結婚を献げたのだそうです。
日本の教会は平均二十人以下の時代です。三十人いれば大きな教会と思われていた時代です。その女性牧師の教会は百六十人を超えていました。
ひとりで開拓した苦労話を聞きました。また、牧師会に集まると男性の牧師達から、「何故、結婚しないのですか」と尋ねられることも話されました。
そういう時には、「イエス様に比べたら、この世の男なんて」と答えます。すると、男性の牧師達は、「イエス様に比べられたら...」と黙ってしまいます。
姉妹全員は、どっと笑いました。
その後で、「私のように結婚を献げて独身で主に仕えたい、と思った人は立ち上がってください」と奨励されましたが、誰一人立ち上がりませんでした。
皆、怖気づいてしまいました。一人でやって行く覚悟なんてありませんでした。しかし、その講義を受講した何人かの姉妹は、今も独身で神に仕えています。
イエス様に比べたら、この世の男なんて、という言葉には、インパクトがありました。
アパートに帰って、主がいわれた事を復唱しました。どうして神は結婚の祈りを献げるようにいわれたのか。アブラハムがイサクを献げた話を思い出しました。アブラハムがイサクを献げた後で、主はイサクをアブラハムに返されました。
私も思いの中にある兄弟を神に献げる事で、肉の思いが清められて、神に献げられた聖いものとなって、戻って来るのでは、と淡い期待を抱きました。
しかし、時間が経つにつれて、不安になってきました。戻って来ないと感じました。
三か月経った頃、主の前に出て祈りました。「主よ。どうしてあなたは、兄弟との結婚の祈りを献げなさい、といわれたのですか。」
神は答えられました。「あなたのために、ひとりの人を用意している。それ以外の者と結婚してはならない。」私のために神が用意しておられる人がいるのだ、とわかった途端、兄弟の事は頭から消えました。
次に神はいわれました。「あなたの人生をわたしに懸けてみないか。」即座に、私は応じました。
「私の人生をあなたに懸けます。」
その後、金銭的な労苦が続く生活に疲れて、私のために用意しておられる男性は誰なのか、と探し始めました。結婚したら、生活が楽になるのではないのか、と思ったのです。
ある集会に出席した時に、その講師に結婚のために祈ってもらうことにしました。講師に祈りを依頼すると、初めてお会いしたその講師は、私の目を真っすぐに見て、「あなたには、はっきりとした使命があります。その使命に結婚が必要ならば、結婚が与えられるでしょうが、そうでなければ、結婚ではない方法で神の働きは支えられます。あなたは、使命の全うのために祈ってください」と言われました。
数年後にその講師にお会いした時にこの出来事を話したらば、覚えておられませんでした。あの言葉は、神がこの講師を通して語っておられたのだ、とわかりました。
結婚したいわけではないのですが、一人でいることの心細さと不安がありました。どうしたら、結婚そのものを神に献げられるのだろうか、と悶々としていました。
長崎の集会に参加するために、長崎に行き、長崎の町をぶらぶらしていると、ご高齢のシスターとすれ違いました。
シスターを呼び止め、結婚をどのようにして献げられたのか、と聞いてみました。そのシスターは、一度も結婚をしたいと思ったことがないこと、シスター同士で、私達結婚したら良い奥さんになっていただろうね、と冗談を言い合ってますよと、とても楽しそうにお話されました。
独身者の共同生活がないプロテスタント教会で独身でいることは難しいのか、と考えつつ(プロテスタント教会で独身でいると、何故結婚しないのか、との質問をする牧師もいます。結婚する事が当たり前とされているのです)、若いシスターを見つけて、同じ質問をしてみました。
結婚を献げる手助けをして欲しかったのです。でも、人の意見を求めても、自分自身の進展が無いことに気づき、心を彷徨わせながら、長崎に作られたドロローサの道を目指して歩きました。
細いドロローサの道をひとり黙々と進んで行くと、小高い山の上に辿り着きました。そこには、平たい大きな岩がありました。イサクの燔祭を思い浮かべました。
誰もいないその場所で、思い切って靴を脱ぎ、ベッドくらいの広さのあるその岩の上に寝転びました。天を見上げ、神に向かって叫びました。
「主よ。私をあなたに献げます。私の人生をあなたに献げます。お受け取り下さい。」
その夜、素泊まりの小さなホテルの一室で、お店で買って来たものを広げ、夕食を食べていた時のことです。何とも言えない喜びに満たされました。
この旅が、イエス様との新婚旅行のように感じました。今まで気づかなかっただけで、実はいつもイエス様と一緒だったのだ、と実感しました。
「イエス様、新婚旅行のようですね」とお話しました。寂しさも不安も消え去っていました。夫のある身となりました。
かつて、「あなたのためにひとりの人を用意している。それ以外の人と結婚してはならない」といわれた、ひとりの人とはイエス様だったんだ、とわかりました。
何人もの人から、結婚しないと思うよと言われて、私自身もどこかで薄々感じていながらも、長い間反発して、人の中にその人を捜していましたが、心の覆いは除かれて、その人はイエス様だったのだ、わかりました。
神が用意された正しい位置に立った時、(神を選ぶ)という心が私の中に置かれました。人に理解されなくても、認められなくても、神が導かれるままに従って行こうと私の心は据わりました。