ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神に覚えられる献金

 

  イエスは献金箱に向かって座り、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。

 

  そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。

 

  すると、イエスは弟子達を呼び寄せて、こういわれた。

  「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。皆は、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」

 

  2レプタとは、百円前後くらいだったのではないのか、と思われます。しかし、貧しいやもめにとっては、持っていた生活費の全部でした。

 

  金持ちは、たとい十万円を献金しても、生活に困ることはありません。多く持っている中の一部を献金したのであって、金持ちにとっては、犠牲ではありません。

 

  人は金額を聞いて驚きますが、神は犠牲をみられます。

 

  金持ちは多くの献金を投げ入れますが、犠牲はほとんどありません。貧しい者は、小さな小さな献金ですが、大きな大きな犠牲を献げます。

 

  犠牲には、神に対する畏敬の念と感謝が溢れています。また、100%神に心を向けています。犠牲を伴わない形ばかりのものとは違います。

 

  神はお金を欲しておられるわけではありません。その人のうちの信仰を見ておられるのです。お金はこの世で生きていくのに、無くてはならないものです。お金があれば、日々の糧を得ることが出来ます。お金があれば、病院へ行って、治療し、健康な体でいられます。お金があれば、将来の不安が和らぎます。

 

  この世の人々は、お金に安堵して生きています。お金はある程度自由な生活をさせてくれます。しかし、いのちの保証はしてくれません。

 

  お金を献金することは、この世で自分が頼みとしているお金を献金して命を神に委ねることなのです。この世で自分の命を守るお金を献金することで、神に自分の生活を明け渡すことなのです。

 

  神が見ておられるのは、この地上の命ではなく、肉体を脱いだ後のいのちを見ておられます。目に見えるところではなく、魂を見ておられるのです。

 

  貧しいやもめには夫はいません。生活を支え養う人がいません。やもめの心を慰め支えるのは、神でした。神にすがり、神に頼るのみです。神の御前に出るのに、何かお献げしたい、しかし、何もない。あるのは、2レプタ銅貨だけです。

 

  やもめはためらうことなく、神に2レプタ銅貨を献金したことでしょう。藁をもすがる思いです。神にすがる道しかありません。やもめの生活、やもめの全身全霊をもって神の御前に出たのです。

 

  イエスは、人々が献金箱に金を投げ入れる様子を見ておられただけです。やもめは2レプタ銅貨が生活費の全部であることを公言したわけではありません。しかし、イエスはわかっていました。神は、すべてをご存じです。

 

  やもめの魂は良いものを選択しました。全知全能なる神に託すという、最も安全で最も確かな行為でした。

 

  貧しい者だから神に受け入れられるわけではありません。貧しさの中で、神を選んだことが、良い選択でした。

 

  貧しくても、神のもとに来ない者も多くいるでしょう。貧しさを嘆き、神を恨む者、落胆する者もいるでしょう。

 

  しかし、このやもめは、自分の人生を諦めませんでした。神にすがったのです。神がこのような人を放って置かれるはずがありません。神は、雀が耕したり種を蒔いて働かなくても養っておられるように、神の方法で食べさせてくださいます。

 

  私はかつて、出席した教会の集会でお話しされたアメリカ人の講師の説教に感銘を受けました。その集会を開催された教会の日本人の牧師が、「講師が牧会するアメリカの教会が教会堂を建築されます。そのために会堂献金をしましょう」と献金を促されました。

 

  献金袋が回って来ました。私は、財布の中のお札を何枚か献金しました。ところが、隣の座っていた一緒に参加した姉妹達は、献金袋をスルーしました。集められた献金袋はそのまま、アメリカ人の講師に手渡されました。

 

  集会のすべてが終わって皆が解散し、その教会の人々が椅子を並べ直していました。見ると、最後に集めた献金の入った袋がアメリカ人が座っていた椅子に置きっぱなしになっているのです。神に献げられた献金を大切に扱っていないのです。アメリカ人は離れたところに立っていました。違和感を感じました。

 

  何かすっきりしない思いで、教会を出ました。一緒に参加した姉妹達は、会堂献金を募る必要があったのか、とつぶやいていました。

 

  駅に行って驚いたことに、帰りの切符を買うお金が足りないのです。メッセージに高揚して、財布の中にあったお札を献金したのは良いけど、その分、切符代を失ったことに気づきました。

 

  ひとりの姉妹にお金を借り、後日お返ししました。その姉妹は、あの献金は変だった。何か聖霊の導きを感じなかったから、私は献金しなかった、と言いました。

 

  また、私が感動したメッセージについても疑問を持っていました。私は見分ける感覚がありませんでした。一緒に行った姉妹達は、ちゃんと見分けていたのです。

 

  献金だからと言って、すべてが神に覚えられるものでは無いことを、この時に体験しました。神が望んでおられる献金か、独りよがりの献金かによって、結果は違います。

 

  神への献金は、たとい人に献金したものであっても、神が祝福してくださいます。献金する者は神に覚えられ、献金を受ける者は、その献金をもって神に感謝し、神を讃え、神に栄光をお返しすることになります。

 

  しかし、神の御前で覚えられない献金は、人から人への献金であって、献金する者は空しく、献金を受ける者は、神への感謝はなく、神が栄光を取られることはありません。

 

  このような献金は、御霊から出たものではなく、そこに神は介在されていないのです。

 

  大事なお金を献げるのですから、神に覚えられる献金をしたいものです。