ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

真理を求める人

 

 真理といわれる教えは巷に満ち溢れています。しかし、おのおのが自分の信じているものが唯一の真理であって、他のものは真理ではないと考えています。

 それで、真理を求めている人は、迷ってしまいます。ある人はこれが真理だと言い、別の人はこれこそが真理だと言います。しかし、真理というものは数多くあるわけではありません。唯一無二のものです。そして、未来永劫変わらぬもので、不動のものです。

 

 多くの宗教は、歴史の中で人間が作り出したものです。無かったものがある時から現われたような、初めのあるものです。「ある啓示を受け、その啓示によって知ったのです。」と言うかもしれませんが、では、その啓示の源はどこにあるのか、と問い詰めれば、言葉に窮することでしょう。「人間には知り得ないことで、偉大なるものだ。」と言って、片づけられるかもしれません。

 

 聖書は、初めからおられる神が、御自分の民であるイスラエルに示された「神のことば」です。人間から出たものではありません。

 人の思いに神という概念が欠落しているときでさえ、存在しておられ、また、人の始まりや宇宙の始まりを知る神です。知るという言葉は適切ではありません。なぜならば、人の存在も宇宙の存在もこの神によって始まっているのです。人や宇宙の存在の原因であるお方なのです。神の初めはわかりません。初めも終わりもない方だと言われています。

 

 人や宇宙を造られた神であり、神の御意思によって、今あるすべてのものは造られ存在しているのです。

 神は永遠の昔から存在しておられ、今もおられ、永遠に存在される、と聖書にあります。人間の目には見えませんが、確かに存在しておられ、永遠に生きるいのちの基なのです。

 

 聖書の神は、御自身で、「わたしはある」と名乗られました。永遠に生きておられるわたし、なのです。

 人は生まれては死んでいき、また、生まれては死んでいく、断片的な命を体験しています。地上に命がある間の「私」、「僕」と言っている存在は、やがて死のかなたに消え去り、忘れ去られます。四代前、五代前の先祖の名前、その妻の名前を言うことすら困難です。ましてや、五千年前の先祖のことなどわかるはずもありません。

 地上で生きる「私」は、「わたしはある」と名乗られる神の中に存在しています。個々人のようで、実は、「わたし」と仰せられる神のいのちの中にあるものです。「わたしはある」という神から離れては、命は存在し得ないのです。

 

 永遠に生きておられる神が、御自身について、宇宙や人の始まりについて、そして、神のひとり子について、宇宙と人の終わりについて、神の選びの民イスラエルに与えられたことばが、聖書です。

 つまり、聖書は、すべての根源である方、全能なる神から与えられた啓示の書なのです。人間に隠されている、また、人間の力では見出すことも、求めることもできない、神のことばです。

 

 真理は、永遠に存在される神御自身です。真理は、天地万物を造られた神であり、神のことばです。神のことばが書き記された聖書は、真理なのです。聖書に書かれていることばは真理であるゆえに、聖書の預言はことごとく成就します。何一つ地に落ちることがありません。

 

 聖書には、初めと終わりが書かれています。根拠なく突然現われたのでも、突然消えるのでもありません。真理である神の御意思により、神のことばによって現われ、神のことばによって消えて行くのです。

 

 聖書には、人の始まりが書かれています。人を造られた神御自身が、選びの民イスラエルに真理のことばを託されました。

 

 聖書には、人の始まりと、人の歴史と、定められたその終わりとが記されています。

 神に造られた人。神に敵対する悪魔。悪魔の言葉に聞き従い神のことばから外れた人。神のことばから外れて義を失い罪人となった人。死の悪魔に捕らえられいのちの神である主から離れた罪人。神の敵である悪魔とともに闇の中を歩む罪人。神が遣わされるキリスト、闇を打ち破り光を与える神の御子。死に勝利する救い主キリスト。キリストの贖いの血と復活のいのち。キリストの血とキリストの御霊によって永遠のいのちを得る人。キリストの御霊による新しい創造。悪い世の終わり。

 

 聖書に書かれている「人」や「罪人」の中に私たちが存在しています。聖書に書かれている「人」や「罪人」は私たちのことです。聖書は、私たちから離れてあるものではないのです。私たち一人一人は、聖書(神のことば)の中に存在しています。

 

 聖書には、今の世の終わりのあとの世界のことも書かれています。

 

 神の御子キリストによる新しい世界。死者の復活と主キリストが治めるイスラエルと神の中にある世界。平和な世。霊の子どもと肉のままの子ども。地球の終わり宇宙の終わり。

 永遠に生きる神、全能者による白い御座による最後の裁き。キリストの御霊による新しい創造の霊の子どもたちは、天の御国へ。生まれつきの肉の人、不義の人、霊の死んでいる死者は、悪魔に用意された永遠に燃え盛る火の池へ。

 

 これらが完了すると、真理だけが残り存在します。御霊によって新しく創造された神の子らを迎え入れた天の御国は、永遠に喜びと楽しみに満ち平安と愛と安息があるのです。

 

 聖書には、これらの約束が書かれています。聖書のことばを信じた者は神のことばを信じた者です。神の御子イエス・キリストのことばを受け入れる者は神のことばを受け入れる者です。神のことばを信じ受け入れる者には、聖書に書かれている約束が与えられます。そして、聖書に書かれている約束(神のひとり子キリスト・イエスを信じ、御霊によって新しい創造を受ける者は、永遠のいのちを受け神の子どもとされる)は、必ず成就します。

 なぜならば、約束された方が永遠に生きる神であり、その契約がうやむやになることがないからです。

 

 聖書は、神御自身が人に与えられた契約書であり、神と人との間の契約です。すべての人に向けられています。契約は破られることがありません。(破るのは、常に人の方です。)

 目に見えない神に対して、信仰によって契約を結びます。真理は、信仰によって受けるものなのです。

 「信仰」はすべての人に平等です。無学な子どもにも、活力を失った老人にも、寝たきりの人、病気の人、お金の無い貧しい人、残りわずかな命の人、死の間際の人、誰でも、神と信仰によって契約を結ぶことができるのです。

 

 真理を求める人が、どうか、真理(神の御子イエスのことばである聖書とイエス・キリストの父なる神とキリストの御霊)にたどり着き、真理(主キリスト・イエスの救いと永遠のいのち)を得ることができますように。