ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

アダムの子 人の子

 

  神が天と地と万物を造られました。

  緑の草と種を持って実を結ぶすべての木を生じさせられた神は、それを生き物の食べ物として与えました。

 

  神が造られた人は、非常に良いものでした。

 

  神は人をエデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせました。神は人に生き物の名を付けさせ、すべての生き物を支配するように、祝福されました。

 

  そして、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と命じられました。

 

  その後、人をご覧になった神は、「人はひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」と仰せられました。

 

  深い眠りを下された人は眠り、神は、人のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれました。

 

  こうして、神は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られました。

 

  すると人は言いました。「これこそ、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名付けよう。これは男から取られたのだから。」

 

  神が人を造られて、満足されたように、男は女を得て、喜びました。この女は、他の被造物とは違い、同じ人であり、男から造られたものであり、男の一部であり、もともと一つのもの、同質の一体でした。

 

  人は、男と女に分かれました。人は、男をアダム、女をエバと名付けました。アダムとエバは、二つにしてひとつのもの。男と女は一体のものでした。

 

  エバは蛇の言葉を受け入れ、神のことばから外れました。蛇の言葉に惑わされて、善悪の木の実を食べました。エバの思いは、塵の中にあったものでした。

 

  アダムはエバを戒めることなく、エバの行動を黙認していました。アダムは、エバが死んでいないことを確かめて、エバに勧められるままに、善悪の木の実を食べました。

 

  エバは蛇(悪魔)に惑わされ、アダムは愛するエバに惑わされました。アダムが善悪の木の実を食べた時に、変化が現れました。

 

  神を恐れる意識が生じたのです。人に罪が入った証でした。

 

  エバが食べた時には、アダムはまだ罪の中にいませんでした。アダムが食べた時に、罪が働いたのです。罪は、神を恐れさせ、神から逃げ隠れさせます。神と繋がっていた意識は外れ、神のことがわからなくなります。

 

  神のことが分からなくなると、神を信じることも、神を愛することも、神に従うことも出来なくなります。

 

  神である主と良い関係であった人が、神のことが分からなくなり、神と分離しました。神の中には調和がありました。神の中で、アダムとエバにも、また、すべての被造物の間に調和があったのです。

 

  すべてのものは、神のうちにあって、神の霊によって一致していました。すべてのものは、神の聖さのうちにあって、神を喜び、神の愛を楽しみ、神の栄光を仰ぎ、神を讃えていました。

 

  被造物全体が、神の栄光の現れでした。

 

  アダムとエバは、エデンの園から追放されました。神から離れたアダムとエバのうちには、調和はありません。不和が生じました。そこに、一致はありません。疑いと怒りと憎しみ、嘆きと恐れと悲しみ、争いと呪いで疲れ果ててしまいます。アダムとエバから、神の栄光は取り去られました。

 

  アダムとエバは、子どもを生み、人は地に増えました。アダムが善悪の木の実を食べた時、被造物全体がうめきました。被造物は人に逆らいます。アダムは、支配者の資質を失いました。被造物は、人に支配されなくなりました。人が被造物を正しく治めることができなくなったからです。

 

  世には、アダムがもたらした不調和が蔓延しました。アダムの子らは、神に逆らう集団です。彼らによって治められることはありません。

 

  暴虐に満ちた悪い世を、神は洪水によって洗い清め、神が選んだノアとノアの家族から、世を再スタートさせました。

 

  神は、人の子によってアダムが犯した罪を償い、聖霊によって新しい人を創造する計画をお持ちでした。ノアから始まった世に、神を畏れる正しい人アブラムを見出されました。神はアブラムと契約を結ばれました。神の計画を成し遂げる国民を造るためです。

 

  アブラハムと改名されたアブラムから、神の計画を担うための約束の子イサクが生まれました。そして、イサクは、アブラハムの契約を受け継ぐヤコブを生みました。

 

  神は、ヤコブをイスラエルと改名し、ヤコブの十二人の息子の子孫を一つの民族、ユダヤ民族としました。

 

  神は、ユダヤ民族を神の民とし、祭司の王国の国民となるように、神の律法を与え、神御自身が養われました。彼らをイスラエルの民と呼び、カナンの地(イスラエルの国土)を与え、イスラエル国家を建てられました。

 

  全地に住むアダムの子らの中にあって、イスラエルは、唯一つ神が選ばれた神の御住まいでした。イスラエルの神殿では、神に生贄を献げ、神に仕える祭司がいました。

 

  この神の民イスラエルから、アダムの罪を償う神の子羊が生まれました。祭司の民であるユダヤ民族は、神の子羊イエスを十字架で屠りました。

 

  イエスは、人の子でした。最初に造られ、神が非常に良いとされた「人」の子でした。アダムとエバに分かれた人ではなく、完全なひとりの人でした。

 

  アダムの罪を贖う子羊イエスの血は、人の罪を赦すという、神の新しい契約となりました。新しい契約では、神の子羊の贖いの血で善悪の木の実の呪いを取り除き、聖霊が与えられ、霊の子として新しく生まれさせてくださいます。

 

  御霊が、アダムを初めに造られた「人」の状態に回復されるのです。アダムとエバに分けられる前の「人」の姿に、アダムの子らを元の状態にされるのです。しかも、塵の性質の「人」ではなく、完全な御霊の「人」とされるです。

 

  「人の子」として世に遣わされたイエス・キリストと同じ姿になるのです。

 

  アダムの子らの世にあって、神は、神が造られたユダヤ民族の革袋に、律法の葡萄酒を与えられました。これが、神の民の証でした。

 

  人の子イエスが現れ、イエスを神の御子キリストであることを信じ、キリストの死と復活にあずかるキリストの弟子、キリスト信者のうちに御霊を与える、という新しい契約を、地の人々に与えられました。

 

  アダムの子の時代には、イスラエルの神殿に神が住まい、ユダヤ人の律法のうちに神の教えがありました。祭司らが教師でした。

 

  人の子の時代では、人の子イエスが頭となり、人の子のからだである人の子ら(キリスト信者である、主の民)を集められます。神の民は、ひとりの人イエス・キリストのうちに入るのです。何故なら、人の子はイエスご自身であり、イエスを信じる人の子らはキリストのからだだからです。

 

  イエスを信じる人の子らひとりひとりが、神の宮であり、キリストの御霊が内住して、彼らを教え導かれるのです。

 

  人の子イエスが与える御霊の働きは、勢いがあります。神の律法である古い葡萄酒を良いもの、神の民にふさわしいものと考える「ユダヤ民族」という革袋に、御霊の新しい葡萄酒を入れるならば、革袋は裂け、分裂してしまいます。

 

  新しい葡萄酒である、神の民の証の御霊は、新しい革袋の人の子ら(イエスの弟子)のうちに入れられます。新しい革袋は、民族、国語を問わない、全地に住む人の子らなのです。

 

  今は救いの時です。アダムの子ら皆に、神は呼びかけておられます。

  「アダムよ、帰れ。あなたの罪は贖われた。人の子よ。平安があなたがたにあるように。聖霊を受けなさい。」

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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