ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

赦された喜びを持つ御霊の教会

 

  イエスは、パリサイ人の家で食卓に着いた。ひとりの罪深い女が、香油の入った石膏の壺を持ってきて、泣きながら、イエスの後ろで御足のそばに立ち、涙で御足を濡らし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして香油を塗った。

 

  イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分に触っている女が誰で、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」と心ひそかに思っていた。

 

  彼女は、悪霊や病気を直していただき、七つの悪霊をイエスに追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリアであった。

 

  彼女はイエスを多く愛した。香油は大変高価なもので、女達にとって、花嫁資金となる大切なものであった。女性の夢を叶えるのに必要で貴重な香油を、惜しげもなく、イエスの御足に注いだのです。

 

  食卓に招いたパリサイ人シモンは、お客であるイエスの足を洗う水をイエスに出していなかった。しかし、マリアは、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、高価な香油の壺を持って来て、罪深かった自分の生き様を責めることなく解放してくださったイエスに感謝を込めて涙をもってイエスの御足を濡らし、自分の長い髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗ったのです。

 

  かつてこの女は、イエスから癒しと解放のわざを受けており、その際、イエスは女から七つの悪霊を追い出したのです。七つの悪霊を宿すほどに、神から心が離れ、罪深い女だったのです。律法を厳格に守るパリサイ人にしたら、関わってはならない罪深い女でした。

 

  イエスが神から出た聖者ならば、こんなに汚れた女に触れられることは拒否すべきです。すでに悪霊は女から出ており、清められていたのですが、パリサイ人は罪に定め、罪深い女と見ていました。罪には、償いが要求されます。

 

  イエスは、パリサイ人シモンに話しました。「ある金持ちから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ(五百万円)、ほかのひとりは五十デナリ(五十万円)借りていた。彼らは返すことが出来なかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」

 

  シモンが、「よけいに赦して貰った方だと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています」といわれた。

 

  そしてマグダラの女の方を向いて、シモンにいわれた。

  「この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来た時、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足を濡らし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。

 

  だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし、少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」

 

  そして女に「あなたの罪は赦されています。」と言われた。一緒に食卓に居た人達は、心の中で「罪を赦したりするこの人は、いったい誰だろう。」と言い始めた。彼らは、イエスが神から遣わされたキリストであることを信じていなかったのです。

 

  イエスは女にいわれた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

 

  女は、イエスの神の力を体験していました。自分を縛っていた悪霊が追い出されたとき、イエスが神の人であることを知ったのです。パリサイ人は罪に定め、罪を責めますが、イエスは、神の聖なる方なのに罪に定めることなく、悪霊から解放してくださいました。

 

  罪深い自分を悪いものから解放して、救ってくださったイエスへの感謝は測り知れません。以前であったら、パリサイ人の家に入ることは適わないことでした。しかし、イエスがおられます。女の心はイエスだけを追っていました。イエスに解放の感謝を伝えたい。罪深い自分の重荷を取り除いてくださったイエスにお礼をしたい。ただイエスへの感謝と愛がこの女を突き動かしました。

 

  この女の愛はイエスと結びついたのです。はしためとなって、イエスの足元に座り、へりくだった柔らかな心で、イエスに精一杯の愛を表したのでした。

 

  悪霊から解放された、心の奥底から溢れる感謝と癒しの喜びをイエスに献げました。もはや、悪魔の奴隷であった罪深い女ではなく、イエスを愛する神のしもべでした。

 

  女は、悪霊から解放されて我に返ると、自分の罪深さをよく理解しました。こんな罪深い私を赦してくださいという、悔いる新しい心で、イエスの足元で涙して悔い改めたのでしょう。

 

  イエスはいわれました。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。」悪霊や病気を直してもらっても、イエスのもとに帰って来ない人もいるでしょう。しかし、マグダラの女は、自分の大切な香油を持って、自分の生涯をイエスに献げたのです。

 

  「あなたの罪は赦されています。」パリサイ人達の前で、イエスは女の罪の赦しを宣言されました。神に赦されたのです。女は、イエスを愛しました。パリサイ人達は、イエスに信仰もなく、イエスを愛することもありません。

 

  律法に厳格なパリサイ人達は、神の赦しが分かりません。律法を守ることで神に受け入れられていると信じています。神を信じていると言いながら、神が遣わされたキリストを信じることが出来ません。

 

  自分を正しいとするパリサイ人達は、神の子羊を必要としません。自分は罪人だと思う者達が、イエスの赦しを受け、イエスを愛するのです。

 

  虐げと裁きによって、彼(子羊イエス)は取り去られた。彼の時代で、誰が思ったことだろう。彼がわたしの民の背きの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。(イザヤ書53:8)

 

  ダニエル書9:26で、油注がれた者(キリスト)は断たれ、彼には何も残らない、とあります。イエスは、十字架上で母マリアを弟子のヨハネの母と呼び、マリアはヨハネに引き取られました。イエスは、地上に肉的家族を残しませんでした。母も妻も子どももいません。イエスが残されたのは、霊的家族です。

 

  マグダラのマリアと結婚していたのでは、という事が言われますが、身近にいましたが、結婚はしていません。マグダラのマリアは、御霊の教会のひな型だと思います。イエスと教会は結婚の関係で、花婿と花嫁の関係だと言われます。それは、肉的な結婚ではなく、霊的な結婚なのです。

 

  七つの悪霊が追い出されたマグダラの女は、黙示録1~3章の勝利する七つの教会のひな型だと思います。あらゆる国民、部族、民族、国語の大勢の群衆によってなる霊的な教会です。マグダラの女のように、自分の罪を知り、イエスに罪が赦されたことを信じ、霊的に主と結び合わされ、神にへりくだる新しい心と聖い心で感謝と喜びをもってイエスに従う人々の教会です。

 

  赦された喜びを持つ七つの教会は、キリストのからだであり、キリストと一つとなる霊的教会です。罪赦された喜びを持って、イエスに仕えるのです。霊的次元で建て上げられる七つの教会は、赦される喜びを体験してイエスと結ばれ、感謝と喜びと従順な信仰の教会です。

 

  イエス・キリストのからだの教会は、御霊によって創造される霊的教会です。七つの御霊の教会は、天上で永遠に生きるキリストのからだです。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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