ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です

 

  神は憐れみ深い方です。いつも、ひとりひとりに心を留めておられます。小さな者も忘れられてはいません。

 

  「見よ。わたしの支えるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。

  彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。彼は傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。

  彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、その教えを待ち望む。」           イザヤ書42:1~4

 

 

  天を造り出し、天を引き延べ、地とその産物を押し広め、地上の民に息を与え、その中を歩む者に霊を授けた神なる主が仰せられるのです。

 

  わたしの計画をともに担う信頼にたる忠実なしもべ、わたしが選んだわたしの心の喜ぶ者。わたしは彼(神のひとり子)の上にわたしの霊を授け、彼(神の子羊イエス)は国々に、神に遣わされた者の使命を果たす。

  彼は叫ばず(自分自身の義を立てることなく)、声をあげず(弁明することなく)、ちまたにその声を聞かせない(地位を得て人々に権威を行使することはない)。

彼は弱い者を虐げることも、彼らの希望をくじくこともなく、正しいはかりをもって、神の真実なことを明らかにされる。

  彼は虐げられ辱められ捨てられても、くじけない。神に従順に歩み、十字架の死によって神の子羊の任務を果たし、人の罪を贖うことで、神の義を打ち立てる。神が地に遣わされた神の子羊イエスを信じ、十字架の主を仰ぐ者は、神に罪を赦され、永遠のいのちが与えられる。

  世界の国々は、死と滅びから救い出してくださる、救い主イエス・キリストの福音を待ち望む。世の人々は、真理を教えられること、真理を知ることを求めている。

 

  イエスは、律法に厳格なユダヤ人が忌み嫌う、体を売る遊女や金を騙し取り私腹を肥やす取税人に、神の救いを語られました。パリサイ人や律法学者達は、罪人とともにいるイエスを見て、つぶやいた。

 

  しかし、イエスは言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために来たのです。」

 

  神の目から見たら、すべての人は神に罪を犯す罪人です。誰ひとり正しい者はいません。自分を正しいとする者は、人を罪人と見ておられる神を偽り者とするのです。

 

  遊女や取税人は、自分の罪を自覚していました。彼らは、罪人だと言われても、抗議しません。救いを求めて、イエスを仰ぐ心砕かれた者です。彼らは、イエスのことばを聞いて、悔い改め、イエスを神から遣わされたメシアだと信じたのです。

 

  一方、律法を厳格に守って来たパリサイ人や律法学者達は、自分は神に忠実な者だと心高くして、イエスのことばにへりくだりません。そして、遊女や取税人を裁くのです。自分達は、遊女や取税人のような罪人ではない、と自分の義を立てます。

 

  神の御前で受け入れられる義は、神の義(神の子羊イエスの十字架の死と復活)です。人の義は、何の役にも立ちません。パリサイ人達は、自分の義を立てるために、神御自身を見失っています。自分を正しいとする者に、罪人を招く教えは届きません。

 

  パリサイ人達は、自分を正しいとして、遊女や取税人を裁く座に着きます。しかし、罪を犯さない正しい人の子、神から遣わされた聖なるイエスは、遊女や取税人を裁くのではなく、彼らを受け入れられます。彼らの罪を戒めるのでもなく、叱るのでもなく、彼らの人生を丸ごと受け入れられます。普通の人のように接しられます。

 

  彼らは、イエスの分け隔ての無い愛に包まれて、自分の罪に気づきます。自分の罪を情けなく思います。自分の人生を後悔し、嘆きます。イエスは手を差し伸べます。イエスは罪を裁くために来られたのではなく、罪から解放するために来られたのです。

 

  イエスは、彼らのうちに癒しのわざをされます。病人を癒す医者なのです。自分は正しい、病んではいない、とする丈夫な者には、イエスの赦しのことばは必要ありません。彼らが必要としているのは、あなたは正しい、良いことに忠実である、という称賛です。称賛に価する自分達を罪人呼ばわりして、赦しを宣言するイエスはいったい何者だ、といきり立つのです。

 

  イエスを遣わされた主は仰せられます。

  「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。

  こうして、盲人の目を開き、囚人を牢獄から、闇の中に住む者を獄屋から連れ出す。」

 

  神に召された民は、神に守られ導かれながら、神が与えた新しい契約(主イエス・キリストによる救い)を宣べ伝える者とされ、世界に希望をもたらす光とされます。

  このキリストの福音は、病人達のもとに届けられ、目に見えない神を見る霊の目を開き、罪の縄目に縛られた人を解放し、悪魔に捕らわれた悪魔の奴隷、罪の捕らわれ人を、闇から連れ出し、癒しと赦しと救いを宣言するのです。

 

  イエスは言われます。

  「取税人や遊女達(律法の下にいない者)の方が、あなたがた(ユダヤ人)より先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネ(イエスが神の子羊キリストであると証言したバプテスマのヨハネ)が義の道(エリヤの霊と力で主の前触れをし、主にお会いするのに整えられた民を主のために用意する、備えの道)を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女達は彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、後になって悔いることもせず、彼を信じなかったからです。」

 

  イエスは、正しい人を招くために来られたのではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来られたのです。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

    アマゾンkindle、紙書籍、楽天kobo