「苦しみのあった所に、闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、辱しめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
あなた(神)はその国民(神の民)を増やし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分ける時にに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。
あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼を虐げる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。
戦場ではいた靴、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。」(イザヤ9:1-5)
イエスは、バプテスマのヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤに立ち退かれました。そしてナザレの町を去って、カぺナウムに来て住まわれました。そこは、ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町でした。
このとき、預言者イザヤの預言が成就されました。
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗闇の中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」(マタイ4:15,16)
異邦人のガリラヤは、神に聖別されたユダヤ人の間に、肉の割礼もなく、律法の下にもいない異邦人が住まう地です。ユダヤ人は、神に選ばれた聖なる民です。神の民でない無割礼の異邦人とは関わりを持たない厳格なユダヤ人たちから、ガリラヤ地方に住むユダヤ人たちは蔑まれていました。
神に聖別された神の民であると自負するユダヤ人たちは、無割礼(神の契約のしるしがない)で律法の下にいない異邦人と関わるならば、自分も汚れてしまうと考えました。
神から遣わされた救い主イエスは、バプテスマのヨハネがヘロデ王に捕らえられると、聖書の預言どおり、異邦人のガリラヤに住まわれたのです。
闇の中を歩んでいた、救いの約束も望みもない異邦人のガリラヤに、御救いのキリストが住まわれたのです。死の陰の地に住んでいた者たちの上に、御救いの希望の光が輝き、彼らを照らしました。
律法に熱心な祭司長や律法学者やパリサイ人たちではなく、律法の外の外れた人々の間で真理のことばが聞かれたのです。
必要以上の額の税を取り立てて、私腹を肥やす罪深い取税人は、ユダヤ人の嫌われ者です。イエスは、この取税人のところに行き、彼を招かれました。また、姦淫の女、不品行な遊女に罪の赦しを宣言されました。罪のゆえに病んでいるとユダヤ人から低く見られていた病人のところに行って病を癒されました。悪霊に縛られている者のうちにいる悪霊を𠮟りつけ、悪霊を追い出して解放されました。
ユダヤ人たちから蔑まれた人々のところに行って、御救いの訪れを告げられたのでした。
彼らは、イエスを喜びました。祭司長たちはイエスを憎みましたが、死の陰の地に住んでいた者たちはイエスを信じました。
キリストは、罪に定めるためではなく、罪を赦すために来られたのです。
イエスは言われました。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)
人はみな、死んでゆく罪人です。人は必ず死にます。罪があるからです。死は、罪の報酬なのです。自分は正しいとする者に、キリストの救いは要りません。キリストの血の贖いなしで、自分を義としているのです。
しかし、ユダヤ人が罪人のレッテルを貼って蔑んでいる病人や盗人や貧しい者や罪深い者は、自ら自分は人々に蔑まれ忌み嫌われる罪人であることを自覚しています。
自分を義とする正しい人々に罪の赦しを宣言しても、かえってののしられるだけです。しかし、自分が蔑まれる罪人であることを悲しむ人々に罪の赦しを宣言するならば、彼らの罪の縄目は解かれ、彼らは解放してくださったキリストと神に感謝します。
神は、イエスに罪の赦しを宣言されてキリスト・イエスを信じ神への感謝と喜びに溢れる人々を、義とされます。
神に罪が赦されて義とされる人々は、キリスト・イエスの民であり、神の国民です。
死の陰に住んでいた者たち、闇の中を歩んでいた罪人たちは、罪を赦し罪の重荷を取り除いてくださり義としてくださったイエスを喜び、罪の縄目から解放し自由にしてくださったイエスを、救い主キリストであると告白します。
彼らは、御救い(イエス・キリスト)を手放しで喜び楽しみます。収穫の喜びのときのように、また、分捕り物を分けるときのように、喜びが大いに湧き上がります。
イエスが彼らの重荷のくびきと、肩のむち、虐げる者の杖を粉々に砕かれ、彼らは解放されたのです。
イエスは、敵である悪魔を踏み砕き、悪魔の奴隷と化したこれらの小さき者(ユダヤ人から嘲られ、蔑まれ、嫌われ、ののしられる力のない者、罪の奴隷)を、悪魔が戦いを挑んで仕掛ける罪の罠から救い出されます。悪魔に、引き裂かれ血まみれになった着物(罪の行為)も、すべての靴(罪の道)も焼かれて、裁きの火の餌食となりますが、彼ら自身(彼らの魂)はキリストの血により贖われて救い出されます。
神は、神の羊を養わない牧者たちを罰せられます。
「ああ、自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を飼わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊を屠るが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものを癒さず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力づくと暴力で彼らを支配した。
彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣(偽り者や悪霊ども)の餌食となり、散らされてしまった。わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。
わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食となっている。それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らの餌食にさせない。
見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。
わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しい裁きをもって彼らを養う。
見よ。わたしは羊と羊、雄羊と雄やぎとの間を裁く。わたしはわたしの群れを救い、彼らが二度と餌食とならないようにし、羊と羊との間を裁く。
わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデ(ダビデの王座に着くとこしえの王、神の子羊キリスト・イエス)を起こす。彼は、彼ら(神の民)を養い、彼らの牧者となる。
主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデ(イスラエルの王、神の御子イエス・キリスト)はあなたがたの間で君主となる。」(エゼキエル34:2-24)
キリストは戦われました。だれと戦ったのでしょうか。蛇のかしら、罪の首謀者である悪魔と戦い、悪魔の策略を打ち砕き、悪魔の要塞を踏み砕いて悪魔の軍勢、暗闇の子らを滅ぼされます。
神は、イザヤの預言どおり、神の羊を養い、正しい道に導くダビデの子(蛇のかしらを踏み砕く神のひとり子イエス・キリスト)をイスラエルに遣わされました。ダビデの子(イエス・キリスト)の贖いの血(神の子羊イエスの罪の贖いの血)によって、神の羊は癒されて、永遠のいのちを得る者として聖められ、天の御国に入る神の子どもとされるのです。
神はレビ人の牧者(祭司)を退け、無学な漁師ら(イエスの弟子)を羊飼いとされます。神の御子イエス・キリストを王とする新しいイスラエル(神の民)を造られるのです。
キリストは、神の敵(悪魔)と戦い、勝利を取られました。
「それゆえ、わたし(神)は、多くの人々(贖われた魂)を彼(悪魔に勝利した神の子羊イエス・キリスト)に分け与え、彼は強者(信仰の勝利者)たちを分捕り物としてわかちとる。」(イザヤ53:12)
女の末から生まれた人の子(神の御子イエス)は、人を騙して罪と死に陥る奴隷とした悪魔を踏み砕き、悪魔の手から人を救い出して生かす御霊を授け、永遠に生きる神の子どもに新しく創造されます。
神の御子イエス・キリストを信じて、罪の赦しを受ける者は多いですが、生かす御霊を受けて肉を殺す人は多くはありません。御霊によって新しく生まれ、肉を殺し御霊によって生きる者とされる者のうち、キリスト・イエスを否まず自分を捨てて信仰を守り通す人は多くはありません。キリストを主と告白しイエス・キリストの足跡を辿る信仰の勝利者はわずかなのです。
神は、この信仰の勝利者たちを、戦利品として、神の子羊キリスト・イエスにお与えになります。キリストが受ける勝利の戦利品は、信仰に堅く立つ強者たち、信仰の勝利者たちです。
神は、信仰の勝利者たちを神の子羊キリスト・イエスにお与えになります。神は、キリストの戦利品である信仰の勝利者たちを、神の子羊キリスト・イエスとともに天の御国の相続者とされます。