ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

悔い改める心は神の御恵み

 

 預言者ヨナに主のことばがありました。

 「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」(ヨナ1:2)

 

 ニネベはイスラエルを憎みイスラエルに敵対するアッシリアの都市です。イスラエルの敵国に悪が満ちたならば、「さっさと滅ぼしてください。イスラエルの神よ。」と言いたくなるでしょう。

 

 ソドムに悪が満ちたとき、主は仰せられました。

 「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」(創世記19:20,21)

 

 神に遣わされた三人の人が天からやって来ました。

 彼らは、アブラハムの願いを聞き入れて、十人の正しい人が見つかったならば、ソドムの町を滅ぼすことを止めると約束しました。

 しかし、神を恐れる正しい人は、ロトの家族だけでした。ロトはアブラハムの甥です。ふたりの御使いが、ロトと妻と二人の娘をソドムの町から逃れさせると、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、全地方を滅ぼされました。

 

 ノアの時代に、洪水から救い出されたのは、ノアと妻、三人の息子とその妻たちの八人だけでした。全地は水に覆われて滅ぼされました。

 

 ヨナの時代には、地上に神の造られた神の祭司の国イスラエルがありました。それで、ノアやアブラハムの時代とは異なりました。主はイスラエルの預言者ヨナに、ニネベを滅ぼす計画を伝えて、ニネベに行って、天地の神のことばを伝えるように命じられたのです。

 

 神に聖別されたイスラエルは、地上の種族とは違います。ほかの種族は偶像に仕え、まことの生ける神に敵対する者です。偶像で汚れた彼らと交わることは、イスラエルにとって忌むべきことでした。

 

 しかし、主は、ヨナに命じられました。「立って。」つまり、「迷わずニネベに行きなさい。」と命じられたのです。このことがイスラエルの神から出ていることを明らかにされました。主はヨナに、本当に主が仰せられているのかと疑うことなく、ニネベに行って、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」と告げるように仰せられました。

 

 ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけました。ニネベの王は、ニネベに布告しました。「人も、家畜も、牛も、羊もみな、断食して、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行ないとを悔い改めよ。もしかすると、神が思い直して憐れみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。」

 

 「神は、ニネベの人々が悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。」(ヨナ3:10)と聖書にあります。

 

 イスラエルの神は、異邦人にも赦しと御救いを用意しておられました。悔い改める者に憐れみ深い神です。

 悔い改めるとは、神を恐れる者の姿です。聖なる神を意識し、神にへりくだる者の姿です。

 神を信じる心がなければ、神を恐れることはできません。神を恐れる心がなければ、神にへりくだることはできません。神にへりくだる心がなければ、悔い改めることはできません。悔い改めは、神の前にひれ伏す罪人の姿です。

 

 イエスは、自分を義人だと自任し他の人々を見下している者たちにたとえを話されました。

 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。

 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一を献げております。』

 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様。こんな罪人の私を憐れんでください。』

 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18:9-14)

 

 神の律法を厳格に守るパリサイ人は義と認められず、不正を行なう取税人の自分の罪を嘆く悔い改めの心が義と認められたのです。神に義とされるのは、自分を高くする者ではなく、低くする者です。自分を義人だと自任する者ではなく、罪人であることを認める者です。自分の無力を知り、神の憐れみにすがる罪人です。自分をさらけ出し神の御前で取り繕うことのない、幼子のように純真で神にへりくだった者です。

 

 イエスは罪人を、汚れた者、聖なる神にふさわしくない者としてに退けられるでしょうか。イエスが世に来られたのは、罪人の罪を身代わって処刑され、罪の贖いの血を流すためではありませんか。イエスは、ご自分の命をお与えになるほどに、罪に囚われた罪人を憐れみ、弱った者、病気の者、傷ついた者、迷い出た者、失われた者を愛しておられる神の御子です。

 

 すべての人が自分を義人だと自任するパリサイ人のようであるならば、御救いは必要ありません。彼らは自分で自分を義としています。神の与える義は必要ないのです。

 イエスは、罪人を滅びから救い出すために、世に来られました。神の御子イエスを信じる者を義とするためです。

 

 悔い改める者は、自分の罪を嘆く者です。助けを必要とする者です。神の御子イエスは、彼らのところに来られたのです。

 

 神は預言者イザヤに仰せられました。

 「行って、この民(イスラエル)に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』

 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、癒されることのないために。」(イザヤ6:9,10)

 

 神の御子の十字架の贖いの血を侮り、自分を義とする者は、神の義を受けることができません。自分を義人だとする者は、神の御前でへりくだることができません。自分を正しいとする者に、悔い改めの心はありません。

 

 悔い改める心のない者は、神の義を受けることがありません。自分を高くする者は、神に義と認められません。神に義とされない者は、神に立ち返ることができません。

 

 たとい、罪の中にあっても、その人には望みがあります。神の御子イエス・キリストに向くならば、神の憐れみを受けて罪の赦しと御救いを受けることができるからです。心の低い者は、神の御恵みによって悔い改める心をいただけるのです。

 

 自分は正しいとする者は、たとい、イエスを主と告白していても、心を肥え鈍らせた者です。心が肥えるまま放っておくならば、やがて、悔い改める心は取り去られます。悔い改める心のない者は、悔い改めて神に立ち返ることなく、神に義とされることがありません。

 

 神から知恵を授かった知恵者は言います。

 「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。」(箴言7:16)

 

 義は、人のうちにはありません。義は神のもの、神の御子キリストのものです。神の御子イエス・キリストが神の義です。イエス・キリスト以外の義を求めるならば、神の御恵みから外れます。

 

 神の御子イエス・キリストの義に留まるために人に与えられたものは、悔い改めの心です。悔い改めの心は、神の御子キリスト(神の義)とともにいる者に与えられる神の御恵みです。