ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イエスは神格者

 

  イエス・キリストは、聖なる真の神の御子であり、人格を持つ人の子です。人格を持つ神格者なのです。しかも、三十三年という長きにわたって、この地上で人中を歩まれた唯一の神格者です。

 

  神の御子は、見えない霊なる父を現わす人格者です。被造物の中で御座におられる神を見たのは悪魔となったルシファーだけです。地上の被造物には寿命があります。現れては消え去っていきます。しかし、天使長ルシファーは神が天地万物を造られる以前に神の御座で仕えていたのです。

 

  ルシファーは神を見ています。ルシファーは輝く大天使でした。ルシファーは、神の栄光を見、天使の誰よりも神を知りながら、神の愛を嘲笑い、神の義を憎み、神の聖を汚しました。神を知っていても、このようなことが起こるのですね。

 

  ルシファーは自我を持ちました。「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」神の覆いから出た、自分を頂点とする世界に憧れました。

 

  この事で、優れた天使長であったルシファーが、優れた天使長ではなかったことが明らかになりました。神の栄光の中に身を置きながら、神の栄光に目を向けるのではなく、自分自身の麗しさに目を向けたのです。

 

  人が神の栄光を味わいながら、真の神イエス・キリストから離れ、偽りの神に惹かれるのと同じです。それはどうしてでしょう。彼が求めているのが、神の栄光を仰ぎ神の中で憩うことではなく、自分自身だからです。自分を失いたくないのです。自分のわざ、自分の功績に酔いしれます。神のわざをまるで自分のわざのように捉えてしまうのです。自分の心を満足させたいのです。

 

  悪魔となったルシファーは、心にあるまま働きます。神の支配を受けたくないのです。義も聖さも愛も悪魔には、無意味なことです。何の興味もありません。神のものを破壊し、闇を好んで神の光を消すことに喜びを見出しているのです。

 

  神の覆いから出た自由を楽しみます。神に仕えることを嫌います。悪魔は支配する者になりたいのです。仕える者ではいたくないのです。悪魔が手にした自由は、光の外にあります。

 

  光は永遠で、闇はやがて消滅します。光の生み出すものはいのちで、闇の生み出すものは死だからです。光はいのちに満ち永遠です。闇は死臭が漂う滅びです。

 

  ルシファーは、自ら神に逆らい、光のいのちを失いました。それを後悔していません。彼には、聖なる光を求める願いはないのです。神に関わる事すべてを破壊したいのです。永遠の安息など真っ平です。自分の力を試したい、自分を高いものにしたいのです。

 

  神の御座にいたルシファーは、神の神格を憎みました。神の権威を憎み、主権に敵対しました。

 

  一方、神のひとり子は、父である神を愛し、父のことばと一つ心でした。父の主権に憩い、父と一つであることを、御自分の居場所としておられたのです。御子の中で父と異なる考えや思いを抱くということは、考えの及ばないことです。御子は父の中に安息しておられたのです。

 

  父の思いが御子の思いであり、父の願いが御子の願いでした。御子の性質に疑いとか不信というものはありません。いつも父と一つなのです。父に合わせているのではなく、御子は父の性質を受け継ぐ神の御国の相続者です。父と離れた自分というものはなく、父のご計画と御思いと御国が御子ご自身だったのです。

 

  御子は神格を持つ神格者だからです。神格者である御子と御霊(聖霊)は、神とひとつです。神から離れることはありません。三位一体の神だからです。

 

  神格を持たない被造物はそうではありません。神格がないのですから、神とひとつではありません。神とひとつであるように努力しなければなりません。神から心が離れている、神に疑いが生じると言うのは、神格を持たない者特有の姿です。

 

  自分が神ではないからです。イエスは、神の御姿を捨て、肉体を持つ人の子として、人々に現れてくださいました。肉体を持つ人々に神を知らせるためです。目に見えるかたちで、神を現わされました。

 

  病人を癒し、悪霊を追い出し、死人を生き返らせ、多くの不思議と奇跡を現わされました。イエスは、ご自身に於いて、目には見えない父を現わし、神の御国の力を現わされました。そして、悪魔が存在することも知らされたのです。イエスは、この世で神の力を現わされたのです。

 

  現象を信じて生きている者には知られていなかった、霊のことを教えられました。イエスとイエスを信じる者に挑む悪魔と悪霊の存在を知らせ、これらの神を神としない不法者との戦いを教えられたのです。

 

  イエスは弟子達に、イエス・キリストの御名の権威を与えられました。この御名は、天にも地にも有効な神の勝利の武器です。この御名によって、悪霊を叱れば、悪霊は従います。悪魔もイエス・キリストの御名に震えおののいているのです。

 

  イエスを信じる者は、イエスに信仰を定めなければなりません。神格を持っていないので、ひとつになっているわけではないからです。

 

  人は、キリストが授けて下さる御霊によって、神格者なるイエスと結び合わされています。イエスと結び合わされた人は、キリスト・イエスにあって父とも結ばれます。

 

  イエスが主であると告白しないもの、イエスが神の御子であると信じないもの、イエスが肉体を持って来られた神の御子であり、人の子であることを告白しないものは、すべて神から出たものではありません。神格を持つ唯一のまことの神には繋がっていないのです。

 

  主イエスに目を向け、イエスを主と告白する者、イエスを愛する者に御霊が導きを与えられます。イエスはご自分を信頼する者を孤児にはされません。助け主なる御霊によって教え、導き、守られるのです。

 

 

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