創造主は人を造られました。
世は、天から落ちた悪魔が自由に働く世界です。神は悪魔の破壊の手が及ばない、エデンの園に人を置かれました。悪魔が人を滅ぼすことは出来ません。
悪魔は、言葉という武器を使いました。直接人に手を掛ける事はせず、蛇を使ってエバに語りかけました。惑わすという策略です。アダムもエバも戦いのことは習いません。神に従順に従うことを学ぶのです。神のことばに従順であることが、彼らの生き様でした。そんな暮らしの中に蛇が言葉をもって誘いかけて来たのです。
言葉は彼らの親しんでいるものです。違和感なく耳を傾けます。神から蛇と話してはならない、と禁じられていないからです。蛇の語る言葉は、神から聞いていたことばの内容とは異なるものでした。
神のことばと異なる言葉が存在することを、アダムもエバも知りませんでした。不思議な感覚です。神は園にあるすべての木の実をどの木から食べても良いと言われていました。ただ中央にある木からは食べてはならない、と言われていたのです。
中央の木はふたりの目に見えます。目で見て、他の木との違いは分かりません。しかし、他の木々の木の実はどれでも食べて良いのですから、それで十分でした。しかも、中央の木の実を食べたら必ず死ぬ、と言われているのです。アダムとエバには、神に敵対する心や挑戦的な思いはありません。
蛇はそれを食べても死なない、と言うのです。しかも、その木の実は、善悪を知る知識を与えてくれるというではありませんか。人にとって悪いものではなさそうです。
神のようになる、とは悪魔の願いです。悪魔は、悪魔の心と結ばれる、神の反逆者を増やし、神に敵対する世を整えて、悪魔が神になることをもくろんでいます。
アダムもエバもエデンの園の平安の中にあって、素直に育っていました。言葉に耳を傾け、疑うという学びをしていなかったのです。神は、人が神のことばに従順であることを期待しておられました。疑うことは知らなくても良かったのです。神のことばに留まるように、と期待されたのです。
エバは、原点に戻る必要がありました。中央の木から取って食べてはならないと教えてくれたアダムに尋ねなければなりません。アダムは、神に確認しなければなりません。
もし確認していたならば、神はこう答えられたでしょう。「その実を食べたならば、必ず死ぬ。その木から取って食べてはならない。これがわたしの命令である」それでも、エバは食べたのでしょうか。
エバは自分自身で判断し、蛇の言葉を信じて、実を食べました。エバは、神から直接聞いていませんでした。聞いたのは、アダムです。エバが実を食べても変化はありませんでした。アダムはそれを見ていました。エバが神のことばを破るのを見ていたのです。止めませんでした。
アダムも、蛇の言葉に、心の扉を開いていたからです。変化の見られないエバの様子を見て、アダムは誘惑されました。エバが食べなければ、アダムも食べることは無かったことでしょう。
アダムも、エバから手渡されたその実をかじりました。その時、変化があったのです。神のことばを聞いたのはアダムでした。アダムが神のことばに反した時、神の命令が破られたのです。
アダムの目が開かれると、エバの目も開かれました。アダムによって、ふたりの目が開かれたのです。目が開かれた彼らは、自分達が裸である事を知り、いちじくの葉を綴り合せて、自分達の腰の覆いを作りました。
神のことばによって生きていたふたりは、互いの裸に意識がありませんでした。しかし、肉の目が開かれると、現象にとらわれる意識に変化しました。本質や霊的実体よりも、人の目に見える肉的実体や現象に意識が向けられました。
霊に覆いがかかりました。霊的なことがわからなくなると、何故か神を恐れるようになりました。アダムとエバに不純物が入ったのです。神の敵である悪魔の言葉です。悪魔は神の裁きを恐れて震えおののいています。聖なる方は汚れを滅ぼし、義なる裁きをもって、神の主権に背き神の支配から外れたものを滅ぼすことを定めておられます。
この悪魔の持つ恐れを、アダムとエバは食べたのです。悪魔の恐れは、アダムとエバの一部となりました。神を恐れたアダムとエバは、神の御顔を避けて身を隠しました。
聖なる神は、不純となったふたりを、エデンの園から追放されました。
義なる神は、悪魔を滅ぼす永遠の火を造られました。神の聖に反するものを燃やす火です。悪魔の不純物を食べた人もその対象となってしまいました。
しかし、神は人を裁きの対象とすることを望まれませんでした。裁かれるのは、悪魔です。そして、悪魔に従う悪霊どもです。人は、自らの意志で悪魔に従ったのではありません。神に対する反逆の心を持っていたのではないからです。悪魔に騙され、囲まれたのです。しかし、不純な悪魔の食べ物(神のようになろうとする知識の木)を食べたことは事実です。
神は人のうちにある不純物を取り除くために、神のひとり子に不純物の呪いを負わせ、生贄の神の子羊とされました。神は贖いの血を要求されたのです。それで、人の子イエスを身代わりの子羊とされました。神の子羊イエスの贖いの血は、人のうちにある不純物をすべて聖め、罪汚れを帳消しにする力があります。
中央の木の実を取って食べてはならない、とアダムに命じられた神は、「神が世に遣わした神の子羊イエスを信じなさい」と再び命じられます。神の命令に従わなかったアダムは、エデンの園から追放されました。そのように、神の命令に従わず、イエス・キリストを信じない者の行く先にあるのは、悪魔のために用意された永遠の火です。
神の命令に従い、神の御子イエスを信じる者は、神の御国に入るのです。人を造られた神は、人を悪魔から取り戻し、悪魔のために用意した火の池の呪いから救い出されるのです。
神は、人を死の呪いに入れるために造られたのではありません。神のひとり子とともに、神の御国を相続する者として造られたのです。ルシファーと天使達が出て行った天には広い場所があります。反逆したルシファーに代わって、御子と愛によって結ばれる新しい被造物、人を住まわせる計画です。
悪魔が神の計画に割り込んで来ましたが、神は、子羊イエスの血によってリセットし、造られた目的通りに「人」を完成されるのです。
著書 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷泰世著 (青い表紙の本)
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