ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イエスの宣教開始

 

 バプテスマのヨハネから水のバプテスマをお受けになったイエスに、神は、天から聖霊を下されました。

 聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られ、御霊に導かれて荒野に上って行かれました。

 四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられると、試みる者、悪魔が近づいて来て、イエスを試みました。イエスが悪魔の試みに勝利すると、悪魔はイエスを離れて行き、御使いたちが近づいて来て、聖霊に満ちたイエスに仕えました。

 

 バプテスマのヨハネが捕えられたと聞いて、イエスはナザレを去って、ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりにある町、カペナウムに来て住まわれた。

 

 このことによって、預言者イザヤの預言「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗闇の中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」が成就しました。

 

 水のバプテスマのヨハネの時代から、聖霊のバプテスマのキリストの新しい時代が起ころうとしていました。

 

 神は、ユダヤ人の聖地エルサレムからではなく、ユダヤ人が蔑む異邦人も住むガリラヤ地方から、キリスト・イエスのわざを始められました。神の救いは、異邦人にも及ぶものだからです。キリスト・イエスは、異邦人の光なのです。

 

 この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。

 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

 

 バプテスマのヨハネの場合の、「天の御国が近づいたから。」は、キリストが現れることをさしました。

 ナザレのイエスの場合の、「天の御国が近づいたから。」は、地に聖霊が注がれ、神の子どもたちが、天の御国に集められることをさしました。

 

 聖霊に満たされた人の子イエスがナザレを離れ、聖霊の導かれる父なる神の御心の地に入られると、いよいよ、イエスが地に遣わされた父なる神のための歩み、神の御子キリストとしての公生涯が始まりました。

 

 初めに、イエスは、父なる神が選ばれた人々を集めて、ご自分の弟子とされました。水のバプテスマを受け、聖霊を受けたイエスは、悪魔の試みを受けるために御霊に導かれて荒野で断食し、悪魔の試みに勝利した後に、御父の用意されたカペナウムで、宣教を開始されました。宣教の初めに、御父が用意された人々、イエスとともに歩み、父なる神とキリストに仕える使徒を集められたのです。

 

 「ナタナエルが弟子となって三日目に、ガリラヤのカナで婚礼がありました。そこにイエスの母マリアがおり、また、イエスも、弟子たちも、その婚礼に招かれた。

 葡萄酒がなくなったとき、母がイエスに向かって『葡萄酒がありません。』と言った。

 すると、イエスは母に言われた。『あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。』

 母は手伝いの人たちに言った。『あの方が言われることを、何でもしてあげてください。』

 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つおいてあった。

 イエスは彼らに言われた。『さあ、今汲みなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。』彼らは持って行った。

 宴会の世話役は葡萄酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、―しかし、水を汲んだ手伝いの者たちは知っていた。―彼は、花婿を呼んで、言った。『だれでも初めに良い葡萄酒を出し、人々が十分飲んだ頃になると、悪いのを出すものだが、あなたは良い葡萄酒をよくも今まで取っておきました。』

 イエスはこのことを最初のしるし(イエスがキリストである証拠としての奇跡)としてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。」(ヨハネ2:1-11)

 

 弟子たちを集め、宣教を開始した息子イエスに、母マリアは、御使いのお告げやイエス生誕にまつわる数々の不思議や、イエスが神の家をわたしの父の家と呼んだこと等を思い起こして、イエスが神の聖者、神の御子であることに思い至っていたのでしょう。

 

 母マリアは、イエスに葡萄酒がないことを告げました。神の御力を宿すイエスが解決してくれるものと思ったのかも知れません。

 イエスは、「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」と答えられました。

 

 イエスは、御父から知らされていたのでしょう。水を葡萄酒に変えるしるしで、神から遣わされた者の栄光を現わすことを。これは、神から出たことです。人が介入してはなりません。人の願いによるものではなく、御父の号令によって、御父の定めた時に現わされる、神の栄光なのです。

 

 宣教開始して、御父の敷かれた道を聖霊とともに歩む神の御子イエスと、肉の母親マリアと何の関係があるのでしょう。

 

 今はもう、マリアの子と呼ばれる人の子ではありません。聖霊に満たされたイエスは、神の御子と呼ばれる人の子なのです。マリアは母ではなく、キリスト・イエスに贖われるひとりの婦人なのです。これこそが、真の姿であり、本当の関係なのです。

 

 ここで、真理は言っています。マリアは贖われるべき、原罪の罪人のひとり、キリストを必要とする神の被造物なのです。つまり、イエス・キリストは、マリアを造った方でもあるのです。

 

 マリアは、イエスに執り成すことに失敗しました。イエスは母マリアではなく、御父に直接聞き従う神の御子なのです。

 

 この時、マリアは、目の前のイエスは、息子イエスではなく、神の御子キリスト・イエスであることを悟ったのでしょう。マリアは手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」

 

 母マリアの働きは、息子イエスに執り成す働きではなく、イエスが神の御子キリストの権威を持つお方であることを悟った者の働き、つまり、人々を主イエスにより頼ませるための勧めをする働きだったのです。

 

 イエスは、神の号令の時に、手伝いの人たちに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」意味はわからなくても、手伝いの人たちはイエスのことばを聞いて、その通りにしました。

 

 また、神の言われる時に、イエスは、「さあ、今汲みなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」と、手伝いの人たちに言われた。彼らはイエスの言われるまま、水がめに満たした水を汲んで、世話役のところに持って行った。そして、彼らは水が葡萄酒になったことを知ったのです。しかも、最上の葡萄酒なのです。

 

 手伝いの人たちは、その葡萄酒が自分たちが汲んだ水であることを知っていました。イエスは、この奇跡を、神の御子の最初のしるしとして、ガリラヤのカナの婚礼の席で行ない、ご自分の栄光を現わされました。それで、弟子たちはイエスを神から出たものであると、信じました。

 

 この奇跡は、神の御子イエスの栄誉のためであり、イエスが集めた弟子たちに、ナザレのイエスこそがイスラエルが待ち望んだ、神が天から遣わされたお方であることを信じさせるための、父なる神のはからいでした。

 

 こうして、神の御子イエスは、御父に聞き従い、聖霊とともに、神の栄光を証する歩みをされたのです。