ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の民 日本

 

 人はアダムとエバの中にあって、神のことばに背きました。神のことばを退けて神の敵である悪魔の言葉を信じたのです。

 

 悪魔は神のひとり子を妬み、憎んでいました。それは、神の御子だからです。ルシファーは、大天使でした。神に愛され、天使たちに愛される大天使です。しかし、神格を持つ御子は、神です。大天使よりも高いものです。神と一体の御子を、ルシファーは羨ましく思っていました。御子への、神の愛は特別でした。

 

 ルシファーは、御子よりも高い座に着きたかった。神を敬うルシファーは、御子を神のように敬うことが出来ません。神のようには、御子を尊べないのです。神ゆえに御子に仕えますが、御子に心へりくだっていたわけではありません。御子に統治されるなんて、真っ平です。ルシファーは、御子の神格に反逆します。御子を蔑むのは、父である神を敬わないことです。御子のご主権を侮ることは、父を侮ることです。

 

 天使は神に仕えるものです。しかし、天使長の立場のルシファーが、主人である神を侮りました。御子は神とひとつです。御子を尊ばないルシファーは、神の御主権を汚しました。神は、御子を侮るルシファーを天から追放しました。

 

 闇に落ちたルシファーは、醜い姿の悪魔となったのです。神のことば(御子)に敵対する悪魔は、御子が造った人をそそのかし、悪魔の言葉によって捕え、神のことばから引き離しました。御子の愛する人を悪魔は奪い、悪魔の支配下に置き奴隷としました。

 

 神のことば(御子)に逆らい、悪魔の食べ物(善悪を知る知識の木の実)を食べた人は、エデンの園を追放されました。

 

 アダムの違反により人類に罪が入り、罪によって死が入り、死が全人類に広がりました。死は、アダムと同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。

 

 人に裏切られた御子が、人の罪を赦すために受肉し、神の子羊イエスとしてイスラエルに遣わされました。人は、御子を憎み敵対する悪魔に従って、悪魔に御子を侮らせたのです。御子は、ご自分を卑しめた人の罪を取り除くために遣わされました。

 

 人は、受肉した御子イエスにも逆らいました。悪魔の奴隷となった人は、悪魔の敵である御子を憎み罵りました。悪魔の思いを成し遂げたのです。

 

 御子は悪魔の奴隷となって死にゆく人を憐れまれました。ご自分を侮り蔑み殺意を持って憎む人々を赦されました。神のことばである御子を裏切り、死ぬ者となったアダム。受肉して世に下り、和解のために来られた御子を再び人は裏切ったのです。

 

 しかし、御子は赦されました。人が御子に悔いて謝ったからではありません。罪人でありながらご自分をののしり、罪の上に罪を重ねた人を赦されたのです。御子は人を赦すために、生贄の子羊となって、血を流し、罪を贖うことで罪を赦されました。

 

 罪を犯された御子が、罪を犯した人の身代わりとなって処刑され、その死によって、ご自分に犯した人の罪を赦されたのです。道理に合いません。自分は罪を犯してはいないと言い張り自分の罪を認めず、謝罪もしていない加害者である死刑囚の罪を赦すために、被害者自らが死刑となって、加害者の罪を赦し、罪を赦しただけではなく、罪を帳消しにしたのです。こんなことってあるでしょうか。

 

 イエスはそれをされたのです。「わたしに犯した罪を赦すよ」という事ではありません。「あなたの罪は赦された」と宣言されました。自分が罪を犯したという自覚のない罪人が、罪を悟り、罪を悔い改め、謝罪することもないうちに、御子イエスは、ご自分に罪を犯した人の身代わりとなって、彼らの罪を負い死んだのです。そして、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです」と、裁判官の神に執り成されました。

 

 神は、御子の死と贖いの血を受け入れ、御子を墓から甦らせ、復活のからだで昇天させられました。罪人の思いもよらない方法で、神のわざは成し遂げられたのです。

 

 アダムひとりの違反のために罪に定められた人が、裁かれ死んでいきます。しかし、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物(御霊)とは、多くの人々にいのちを与えるのです。

 

 裁きは、一つの違反のために罪に定められたのに、恵みは、多くの違反が義と認められます。悪魔の奴隷であり、神の敵であった人が、御子の死によって神と和解させられました。イエスを主と告白し、神との平和を持つ人は、イエスのいのちによって救いに与かり、神の国に迎え入れられるのです。

 

 日本人は、言霊と言って、ことばを大切にして来ました。また、目に見えない力を認め、木や植物や生き物や環境に置かれたすべてのものにいのちを感じ取ってきました。いのちの主を尊び、すべての被造物に働いているいのちを愛する日本人は、創造主なる神に特別に覚えられた民族だと思います。

 

 ことばに神を見ているのです。聖書はなくても、心に律法の記された民です。昔の日本人は自然と共生し、生かされている存在であることを知って神を畏れる者でした。目に見えない霊なる神とともに歩む民族でした。

 

 日本人は、お天道様(生かしてくださっている、目に見えない神)が見ている、という神の律法を持つ民です。今まで隠されていましたが、神は確かに日本人の選ばれた者に神のことば(神示)を与えておられました。

 

 イエス・キリストの事は知らされていませんが、イエスの父なる神が、終わりの時代に日本人をご自身の働きのために立てられるのです。神のことばを畏れる彼らは、神の召しを受けて、神のことばのために忠実に働くのでしょう。

 

 彼らは宗教に犯されていません。神のことばに真っすぐに向くことができるのでしょう。日本にクリスチャンが少ないと思っていましたが、神は、聖書を知らないのに、聖書の教えのように生きて来た日本人を終わりのために計画をもって守り導いておられたのですね。

 

 その時が来れば、日本人の目が開かれ、聖書の神を知り、聖書の神のことばに従うのでしょう。そのために召されている日本人がいるのでしょうね。永遠のいのちを持つクリスチャンが天に引き上げられた後で、彼らの信仰が確かなものとなるのでしょう。