ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

御霊の子は自由の子

 

 ガラテヤ人への手紙4:22-31で、パウロはこう言っています。

 

 「アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。

 女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。

 このハガルは、アラビアにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。何故なら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。

 しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。すなわち、こう書いてあります。

 『喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ。産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもは、夫のある女の産む子どもよりも多い。』

 

 兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もその通りです。しかし、聖書は何と言っていますか。

 『奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。』

 こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」

 

 パウロは、アブラハムのふたりの子をさして、女奴隷ハガルから生まれたイシュマエル(アラブ人の父祖)を女奴隷の子、妻サラから生まれたイサク(ユダヤ人の父祖)を自由の女の子、と言っています。

 

 神は、不妊の妻サラとの間に子どものいないアブラハムに、彼の子孫にカナンの地を与えることを約束されました。アブラハムは神のことばを信じ、サラに子が宿るのを待ち望んでいました。しかし、サラは子のないまま、閉経したのです。それでも、アブラハムは神を信じて、子が与えられるのを待ち望んでいました。

 

 女の月のものも止まり、自分には子が宿らないということを知った不妊の妻サラは、神の約束を待たず、神の約束を成就させるために、女奴隷ハガルをアブラハムに与えました。

 夫アブラハムもそれを受け入れて、サラの女奴隷ハガルの胎に人間(肉)の営みによる子を宿し、神の約束のものを自分の力で得ようとしました。女奴隷の子イシュマエルは、肉によって生まれました。

 

 イシュマエルは、神が与えた子どもではありません。アブラハムとサラの肉の欲求によって生まれた子でした。サラはアブラハムに言いました。「ご存知のように、主は、私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」

 

 不妊の妻サラは、自分に望みを持っていませんでした。約束の成就を待ち望むアブラハムも待ちくたびれていたのでしょう。信仰を失いかけていたのでしょうか。神の約束を、自分のできる方法で実現させました。自分たちの知恵に頼り、肉の力で成し遂げました。神の約束のものを得ようとして、妻サラを捨てたのです。

 

 アブラハムの子どもは生まれましたが、妻サラは苦しみました。しかし、神が妻サラを顧みられました。神が与える、と約束しておられたアブラハムの財産を相続する子は、肉によって生まれる子ではありませんでした。約束の子は、アブラハムとサラとの間に御霊によって生まれなければなりません。約束の子は、九十九歳のサラの胎に宿り、百歳のアブラハムに与えられたイサクでした。神が約束された子は、肉によってではなく、御霊によって生まれたイサクです。人の知恵の届かない、人間の力の及ばない、御霊によって生まれたイサクです。

 

 神は、創世記17:8で、「カナンの地の全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる」と言っておられます。また、創世記21:12で、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言っておられます。

 

 神の約束は、アブラハムのひとりの子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」とは言わず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。

 

 肉によって生まれた女奴隷の子と、約束によって生まれた自由の女の子は、比喩であり、二つの契約を表します。シナイ山から出たモーセの律法の呪いに縛られ、律法の奴隷となった、旧約聖書の民の契約です。ユダヤ民族は、地上のエルサレムに属する子です。彼らは、地上の約束の成就を待ち望んでいます。聖書は彼らをハガルの子と表現しています。奴隷となる子を産みます。

 

 しかし、上(天)にあるエルサレムは自由であり、御霊によって生まれた自由の女の子どもです。イサクのように約束の子どもです。神は、約束の子孫によって新しい契約(新約聖書)を与えられました。

 

 神の約束の子窓は、イエス・キリストです。彼を信じる者は、神に義とされます。アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。信仰による人々こそアブラハムの子孫なのです。信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。

 

 律法を行なう者はこの律法によって生きるのであって、信仰によるのではありません。肉によって生まれた奴隷なのです。かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もその通りです。モーセの律法に生きるユダヤ人が、キリストを信じたユダヤ人を迫害して来ました。キリストを信じることは、ユダヤ人コミュニティから捨てられることです。

 

 神の契約の民ユダヤ民族に起こったことが、新しい契約の民キリスト教会にも起こります。律法的奴隷的なことを尊ぶ人々が御霊によって生まれた自由な人々を中傷迫害するのです。

 

 しかし、ユダヤ人に捨てられたユダヤ人(イエスを信じるユダヤ人)の数の方が、彼らを迫害するユダヤ人の数よりも多くなるのです。天に上げられる自由の子が多くなるのです。

 

 そして、聖書はこう言っています。「奴隷の女とその女の子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」天を相続するユダヤ人は、自由の子です。奴隷の子は、相続できません。

 

 御霊によって生まれた者は、自由の女の子どもであり、天にあるエルサレムの相続人です。

 

 パウロは言います。

 「主イエスにある兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。御霊に導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」(ガラテヤ人への手紙5:13、16、18)

 

  肉によって生まれ、肉に従っていた者が、イエス・キリストの血によってきよめられ、神の霊によって新しく生まれたのです。主は御霊です。御霊によって生まれた者は、霊です。主の御霊のあるところには自由があります。真理は自由にします。イエス・キリストが自由にしてくださるならば、肉も死もこの世も引き止めることはできません。天の自由、本当の自由、永遠の自由を得るのです。