ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

想定内で備える

 

 ノアが洪水から救われた時、主は、ノアに洪水を起こす神の計画を告げて、ノアが箱舟を造りそして箱舟に入り、また、箱舟から出るまで、主が語り導かれました。

 

 モーセがイスラエルを導いて、エジプトを出た時、神のことばを受け、神に従い、神のしるしと奇跡をもって、出エジプトしました。

 

 ノアもモーセも未経験のことを、主に従って成し遂げたのです。

 

 イエスは、終わりの時代の人々にことばを残されました。世の終わりの前兆について、弟子たちに語られました。

 

 イエス・キリストの名を名乗り「私こそがキリストだ」と言って、多くの人を惑わす者が大勢現れること。

 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、戦争が起こること。

 方々に飢饉と地震が起こること。

 すべての国々の人々が、イエス・キリストを主と告白しイエスに従う信者を憎み、迫害し殺すこと。そのとき、大勢の人がつまづき、互いに裏切り、憎み合うこと。

 偽預言者が多く起こって、多くの人々を惑わすこと。そして、不法がはびこり、多くの人たちの愛が冷たくなること。

 偽キリスト、偽預言者たちが現れて、選民(ユダヤ人)をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せること。

 

 聖徒たちは、聖書を読んで、イエスの警告を知っています。イエスの警告された終わりの時代に生きる人々は、注意深く聖書のことばを読み、備える必要があります。

 

 古の聖書の民は、ダニエル書を読んで、思考錯誤を伴う解読を試みました。

 復活し昇天したイエスは、弟子のヨハネに黙示を与えられました。ヨハネは、神のことばとイエス・キリストの証、ヨハネの見たすべての事を黙示録という預言書にして、後世に残しました。それで、学者たちは、この解読を試みました。

 

 イエスが十字架で贖いの血を流され、墓に入り、三日目に死から甦られ、復活のからだで天に上られて、聖霊が地上に降臨されてから二千年の時を迎えようとしています。

 

 イエスを信じて、イエスキリストを主と告白する者たちのうちに、御霊が住まわれています。彼らは、罪を知り悔い改めの水のバプテスマを受け、聖霊のバプテスマを受けて、御霊によって新しく生まれた霊の子です。新生した人々です。肉によって神を知ろうとする者ではなく、御霊によって教えられ、御霊に従う神の子です。

 

 新生した神の子らは、御霊に教えられます。御霊によって導かれます。ノアやモーセが神のお告げを受けたように、聖書のことばを通して知らされます。また、御霊によっての語りかけや、夢や幻によって啓示を受けます。

 

 御霊は一人一人のうちに宿っておられます。内なる御霊が示してくださいます。日々、御霊に教えられ従うならば、御霊の感覚を味わうことができます。

 

 日々の歩みが大切です。一朝一夕で身に着くものではありません。御霊とともに歩むことで、主の声を知るようになります。主は、羊のためにいのちを捨てた羊飼いです。羊はその声を聞き分けます。

 羊は、彼(まことの羊飼いイエス・キリスト)の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。

 

 終わりの時代には、偽預言者が大勢現れるといわれています。どのことばに従うかは、一人一人の選択にゆだねられます。他人の責任にはできません。惑わした者が罰せられるだけでなく、惑わされた者も罰せられるのです。エバを惑わした蛇が罰せられます。惑わされたアダムとエバも死と滅びの呪いを負いました。

 

 目を覚ましていなければなりません。しかし、待ちくたびれた乙女は、うとうとしました。終わりの前兆が出揃った頃、人々は警告の声を聞き、みな起きます。

 同じように待っていた乙女が、その時になって、二つのグループに分かれるのを知るのです。

 

 ある人々は、前兆を知る前から主を愛し、御霊の導きに従っていたクリスチャンです。主に忠実な日常を送っていました。彼らには、御霊の油がありました。

 別の人々は、前兆を知ってから、信仰者としての自覚を持ちます。しかし、御霊に教えられ御霊に従う歩みをして来なかったので、御霊の油がありません。

 

 主に忠実なクリスチャンは、うとうとしていても、御霊の油を持っています。彼らは、御霊を宿す聖霊の宮、備えのある者です。

 御霊よりも自分の思いを優先し御霊に従うことを学んでいないクリスチャンは、御霊の油がありません。眠りから覚めて、主が来られるのがもうすぐだ、とわかった時に、御霊の油がないことに気づくのです。自分の思いに従って来たので、御霊を消していました。彼らは、御霊が空っぽの聖霊の宮でした。備えの無い者です。

 

 主を畏れる者は備えられており、主にリスペクトのない者は、備えがありません。御霊の油を持つ聖霊の宮は、生きたまま携挙され、御霊の油の切れた空っぽで御霊が機能していない聖霊の宮は、地上に残されます。

 

 イエスは、多くの箇所で警告しています。世の終わりが来ることは想定内の事として、備えなければなりません。

 

 地上に残された者が、患難期を潜って永遠のいのちを受けるには、本物の信仰が必要です。神とひとつの人でなかった者が、すべてを捨てて命懸けで主にすがるのです。どんな苦難にも耐えなければ、永遠のいのちを受けることはできません。

 

 今は、恵みの時です。悔い改めて、御霊とともに歩む者に変えられる恵みの時です。後で慌てふためかないために、患難期も想定して備えることが必要です。そうすれば、患難期に生き残らない歩みをするようになるでしょう。