「一番大事なものはなあに?それは、命。」って、子どもの頃、言っていました。みんな、命が何か、ということがわからないながらも、命が大切だと思っていました。
命があれば、生きるのです。生きていれば、いろんな計画を立てて、それをすることができます。辛いこともあるけれど、生きててよかったと思える日を迎えることもあります。生きててよかったと思える時、過去の辛かったことが糧になって、乗り越える力が強められているのを知るのです。
目の前に起きる心がくじけそうな出来事を客観的に見た時、あれっ?昔の嘆きは何だったのだろう。これに比べれば、以前のことなんて可愛いものだ。なんであんなに小さなことを、世の終わりであるかのようにお先真っ暗な心になっていたんだろう。
苦難に耐え続けて行くと、本当に強くなります。そして、この前の困難もやり過ごすことができたから、今回も何とかなるでしょう。あの時、急に道が開かれたなぁ。と感慨深げに、主に感謝するのです。
神を知っている者は、強いです。ひとりであって、一人ではないからです。心を打ち明ける主がともにおられます。絶望の中に光があるのです。主から見放されたのではないのかとうろたえるほどに、何も開かれない時もあります。
(もう、だめだ。)と悲観的になりながら、今まで働かれた主の御手を思い出します。主の恵みを回想しているうちに、心がすわります。目の前の状況を受け止める勇気がふつふつと沸き起こります。
すると、自分がしなければならないことに、心が向かいます。心に思い浮かんだことをやり、他に見向きせずに、そのことに心を込めます。新しく始めたことに心を尽くしているうちに、悲観した心は消え、状況的にも回り始めます。
心に悩みがなくなると、それが逃れの道であったことに気づきます。逃れの道は、短い通路です。歩むべき本当の道ではありません。しかし、窮地から脱して本当の道へと抜け出るための通り道なのです。
本当の道でないからと拒んでいたなら、絶望的な状況から逃れることができませんでした。逃れの道によって、本当の道に出ることができたのです。
主にすがる人生は、スリル満点です。絶体絶命という場面に何度も出くわします。しかし、驚きと喜びの人生でもあります。何故、うまくいったのか?本人の意図していない体験、神が何とかしてくださったと思える状況が、信仰を成長させてくれます。見えない神を体験するのです。
とても不思議な感覚です。神の御手の中にいるのを感じられるのです。あんなに慌てふためいたことが嘘のようです。
命は大切です。生きる喜びを与えてくれます。生きていれば、楽しみを見出すことができるのです。苦しみを体験すると、神はより大きな苦しみを与えられます。複数の苦しみの中にいると、心は麻痺して、苦しみが苦しみではなくなります。あっちこっちが痛いと、どこが痛いのかわからなくなります。もう自分の力で何ともなりません。生きているのに、死んでいるかのようです。自分を手放すしかありません。
「もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。」(コリントⅠ 11:31,32)
神が、神の子(イエス・キリストのしもべ)らを整えておられるのです。その人のうちにある、この世の生き方、肉なる性質を、環境を用いて取り扱い、御霊によって新しい創造をされているのです。肉に死んで、主によって救われる者となるためです。
この地上で、命が大事と思われているのなら、天上の永遠のいのちは尚更です。神は、この永遠のいのちを与えるために、ひとり子イエスを地に遣わされたのです。
地上でも、命があるから、息をし、食べ、歩き、愛し、喜ぶことができるのです。神は、天上のいのち(永遠のいのち)を与えようとされます。永遠のいのちがあるから、魂は慰めを受け、愛を受け、平和を愛し、言葉に尽くすことのできない栄えに満ちた喜びに心が湧きあがるのです。
この世で得た財産も富も、知恵も知識も、業績も栄誉も、地上のものです。人間の間で称賛されるものです。天上に通用するものではありません。
天上には天上の富があり、天上の知恵や知識があり、誉れがあります。天上のものは、神からのものでなければなりません。神からのものは、御子イエス・キリストとキリストの御霊なる聖霊です。神が、天から地に与えておられるものです。天から与えられたものを持って、天に入らなければなりません。地上のものでは、神の御国に入ることができないのです。
主イエス・キリストの御名と聖霊とは、神の御国に入るための神の許可証です。許可証のある者は、永遠のいのちを持つ者です。永遠のいのちを持つ者は、御霊の新しい創造のわざを受けた者です。罪赦されて聖なる者とされ、復活のからだをいただく恵みにあずかる者です。
神はすべての者が永遠のいのちを受けるように、と招いておられます。しかし、地上で永遠のいのちの価値を見出す者が多くはありません。地上に思いが向けられているので、永遠という発想がないからです。永遠に憧れながら、地の誉れに心が惑わされてしまいます。見えないものは実証が無いとするのです。定かでないものよりも、地上の知識で実証されるものの方が確かだと思うのです。
地はやがて滅びます。草木が枯れて朽ちて行くように、人が死んで朽ちるように、目に見えているものはみな、朽ちるのです。すべてのものに、寿命があります。地球もそうです。人類が一つの地球で命を繋いできました。しかし、形あるものは、みな滅びるのです。
神は、現象の偽りに気づくように願っておられます。今、目の前にあるものは幻なのです。現象は、やがて消える蜃気楼のように儚いものです。永遠に続くものは、目に見えないものです。永遠に価値あるものは、目に見えないものです。心で捉えるものです。霊で感じるものなのです。
神が用意された永遠に価値あるものが、永遠のいのちです。滅びゆくむなしいものにではなく、永遠に価値あるものを求めるように、永遠に生きる神は望んでおられます。永遠のいのちは、天から来られたイエス・キリストによって、与えられます。
「永遠のいのちとは、唯一のまことの神である父と、父の遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:3)