ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神から出たものを滅ぼすことはできない

 

 大祭司とその仲間たちは使徒たちを殺そうと計りましたが、ガマリエルというパリサイ人が説得しました。

 

 「イスラエルの皆さん。この人々をどう扱うか、よく気を付けてください。というのは、先ごろチゥダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどありましたが、結局、彼は殺され、従った者はみな散らされて、あとかたもなくなりました。

 その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしまいました。

 そこで今、あなたがたに申したいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。

 しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」

 

 彼らは説得され、使徒たちを呼んで、彼らを鞭で打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放しました。(使徒5:33-40)

 

 大祭司とその仲間たちとイスラエル人のすべての長老を召集し、使徒たちを議会の中に立たせたときのことでした。

 

 大祭司は使徒たちを問いただして言った。

 「あの名(イエスの名)によって教えてはならないと厳しく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人(ナザレのイエス)の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」

 

 ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。

 「人に従うより、神に従うべきです。私たちの先祖の神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、甦らせたのです。

 そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君(指導者)とし、救い主として、御自分の右に上げられました。

 私たちはそのことの証人です。神が御自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」

 

 大祭司たちはこれを聞いて怒り狂い、使徒たちを殺そうとしたのでした。大祭司たちの面子をつぶされました。民は神に立てられた大祭司の権威に服さなければならないのに、使徒たちは大祭司の命令を守らないばかりか、まるで、ナザレのイエスの処刑が罪であって、彼の血を流した責任を負わせようとするのです。

 

 大祭司は祭司たちのトップです。すべての権限は大祭司にあります。大祭司は神の代弁者として、イスラエルを教え導く者です。それを、無学なナザレのイエスとその弟子たちに脅かされているのです。

 

 大祭司は、イスラエルの全住民が敬う権威者です。大祭司は、神の権威を帯びているからです。それを、無学な使徒たちが、権威者はイエス・キリストだと言うのです。レビ人から出ておらず、正規の学びもしていないイエスに、何の権威があると言うのでしょう。

 

 大祭司も、祭司たちも、律法学者たちも、長老たちも、パリサイ人たちも、熱心に律法に仕える者たちでした。伝統やしきたりの中に、神を見ていたのです。そうすることが、神に受け入れられることだと信じていたのです。彼らの神は、ぼんやりしていました。

 

 神は霊なるお方であるのに、文字で知ろうとしました。また、生ける全能者である神を、しきたりの中で捉えたのです。

 

 イエスは、生ける神を聖霊の力によって現わされました。病人を癒し、悪霊を追い出し、死人を生き返らせ、罪の赦しを宣言されました。そして、イエスご自身が見て、聞いて、味わった父を証されたのです。

 

 また、ご自分がおられた天の御国を、地上の人々の生活の中に置かれているもののたとえで、表現されました。そして、父が与えようとされる、永遠のいのちについても話されました。天から下って来たイエスご自身が永遠のいのちであることを、ユダヤ人に教えられたのです。

 

 ユダヤ人たちは、全能者であるイスラエルの神を礼拝する者ですが、神を知りませんでした。イエスのことばによって、霊の思いが開かれたのです。地上の祭司たちは、地上のことしか教えてくれませんでした。キリストが来たら、すべてを明らかにしてくれると思っていました。地上の祭司たちは、ナザレのイエスはキリストではない、と言います。大祭司も、ナザレのイエスは神を冒瀆する罪人で、処刑すべきだと言います。

 

 ナザレのイエスがキリストでないならば、イエスは大嘘つきです。彼を信じるべきではありません。キリストでない者のことばに従って、神に罪を犯してはなりません。イスラエルは神の民なのですから。

 

 当時、イスラエルは、ローマ帝国の属州でした。ローマ帝国の支配下にあったのです。ローマ帝国は、神の宮で仕える祭司たちレビ族を優遇していました。彼らの立場はローマ帝国に守られていました。彼らから税を取りません。イエスが神に祭司の油を注がれた祭司であるならば、地上の祭司の務めは危うくなります。もし、イエスが神のキリストであるならば、彼らの立場はなくなってしまいます。彼らは、立場を失うことを恐れました。

 

 イエスは邪魔な存在です。保身のために、彼らはイエスを憎みました。イエスを消し去りたかったのです。彼らには、真理よりも、自分の立場が大切でした。

 

 しかし、律法学者であるガブリエルは、忠告しました。

 「使徒たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。

 しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」

 

 果たして、イエスは使徒たちが言うように、墓から甦られました。そして、聖霊が注がれた使徒たちがイエスと同じように、病人を癒し、悪霊を追い出し、罪の赦しを得させるためにイエス・キリストの御名を教え、聖霊のバプテスマを授けているのです。

 

 大祭司たちは、イエスのからだは弟子たちが墓から盗み、彼らの言うような甦りはなかった、としていました。しかし、復活のイエスの御霊が、弟子たちを通してイエスと同じ神のわざをしていたのです。

 

 神から出たものは、神御自身が守られます。誰もそれを止めることはできません。人から出たものは、いずれ勢いを失い消えていきます。神からか、人からなのか、わからないときには、頭の片隅に置いて、神に委ねることが大切です。いずれ、明らかになるのです。

 

 神からのものに敵対するならば、神からのものだと知らないで敵対していたとしても、もしかすれば、神に敵対する者となってしまうこともあるのです。神に敵対する罪は、人に犯す罪よりも重いのです。